保守系の雑誌を読んだだけで村八分 リベラルの閉鎖性を打破するには保守から学べ
私は、リベラルを自認している。しかし、最近の一部リベラルと自称する人々の言動には解せないことが多い。
直近で話題になっていることに、現役の小学校教員である仲川啓介氏が著した「差別のない本屋に通いたい。本好き教師の冒険の記録」(キボウ書房)を朝日新聞が好意的に取り上げ炎上したことが記憶に新しい。
彼は、いわゆるヘイト本がいきつけの書店に並べられていることに我慢できず、署名運動などを行っていき、その経緯をまとめたのがこの本なのだが、個人の主観に基づいて、本を排除する行為は焚書(ふんしょ)ではないのかという批判が続出し、SNSで炎上した。
また、こんなこともあった。現役慶應大学生でリベラル系論客の白坂リサ氏が、ある評論に興味を持って、保守系オピニオン誌である「WiLL」(ワック株式会社)を手に取って読み、面白かったとSNSで投稿した。
すると、同じリベラル界隈(かいわい)から、「裏切り者」「リベラルの看板を下ろせ」「あんな差別的な雑誌を読むなんて信じられない」と批判を浴び、炎上した。
ここに現れているのは、普段リベラルが口にしている「多様性」「対話」「寛容」などという言葉からは程遠い態度である。
まず、その批判対象である、雑誌を読んでいない。読む前からヘイトや差別だと決めつけている。読んで批判するならまだしも、読む前から批判するのは、最低限の礼儀としてどうなのか。
身内の不祥事には沈黙する矛盾
また、独善というものが、一番怖い。ナチスドイツは、崇高な正義の名のもと、ユダヤ人を抹殺した。まずは、自分を疑うという心を持ってみてはどうか。
こういうことは、私にも経験がある。これまで、リベラル系の雑誌に寄稿していた筆者だが、編集長の花田紀凱氏が面白がってくれたことから、「月刊Hanada」(飛鳥新社)に寄稿することになった。
内容はまったく保守系ではなく、どちらかというとリベラル寄りのものである。発売されてFacebookで告知したところ、何人かに友人を切られた。
SNSはエコーチェンバーといって、内輪の投稿しか見えにくいので、どうしても村社会になりやすい。すると自分たちの「正義」が増幅されて強化されていく。
誰かが、はみ出すと、排斥する。まるで、中国かロシアか。そこに、開かれた社会は、ない。そして身内には徹底的に甘い。辺野古の同志社国際高校の転覆事故の件を見れば明らかである。
そして、誰かが、少しでも間違うと、伝家の宝刀、キャンセルカルチャーで、完膚なきまでに、社会的に抹殺する。そこに寛容の心はない。それでは、共感は得られないのではないか。単に社会にとって、嫌なやつとして処理されるようにしか思えない。
いったい、何がしたいのか。
保守系論客は、ちゃんとリベラル系の雑誌や論説をチェックして批判している。一部のリベラルのように、読まずに批判するようなことはしない。また、寛容性も保守のほうがある。多少の間違いは許す余裕がある。
そのくらいの遊びがないと社会は回らない。理想の社会を掲げるのはいいことだが、まずは他人の思想を頭ごなしに否定するのではなく、そういう思想を持っている人もいるということを認める。
その上で、粘り強く「対話」を重ね、ときには「余裕」を見せることが大事なのではないか。リベラルこそ、保守から学べることはたくさんあると私は思う。
文/神田桂一 内外タイムス






