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鈴木宗男インタビュー(第3回)誕生~生涯の師・中川一郎との出会いまで

2026年10月9日午前、東京・永田町の自民党本部で開かれた「自民党農業構造転換推進委員会」。冒頭、簗(やな)和生農林水産相(当時)のあいさつに怒号が飛び交った。

「ちょっと大臣。まず冒頭にお騒がせしてます、すみませんとか、しっかり説明責任を果たしてやってまいりますというあいさつがあってしかるべきじゃないかな」

「予算カット」発言で渦中の簗大臣があいさつで一言も自身の騒動をわびる発言がなかったことに対して、鈴木氏がかみついたのだ。相手が大臣だろうが正しいと思ったことはその場で直言する。いわゆる「ムネオ節」の真骨頂だ。改めて鈴木宗男という一介の政治家にスポットを浴びせる。

鈴木宗男インタビュー(第2回)「辺野古沖埋め立ては自然に対する冒とく。沖縄に申し訳ない」 沖縄を思うからこその誤算 から続く。

「鈴木宗男」をつくった北海道という大地

鈴木宗男が生まれたのは北海道中川郡西足寄村、現在の足寄郡足寄町だ。町として国内で最も面積が広く(約1400平方キロメートル)、十勝地方の北東部に位置する。町のホームページをのぞくと、広大な大自然や名産のチーズなどを紹介する動画とともにヒグマ出没情報なども掲載され、のどかな様子がうかがえる。

1948(昭和23)年1月31日、鈴木氏は農家の次男として産声を上げた。生まれた時は電気がなく、電気が通ったのは東京五輪の3年前の1961(昭和36)年だった。鈴木氏の実家があった地区は日本で一番寒いところだったという。

「昔は何もなかった。ただ寒いというのが一番の売りで、米が作れませんから子どものころはご飯半分米半分麦。だからご飯といえば黒いものだと思っていた。親父の出身が宮城なので米を送ってくれることが楽しみでね。だから私は子どものころの苦労が後で生きるんですよ」

地元の小学校を卒業し中学校に上がったころ、NHKラジオから流れてくるのは高度成長期真っ盛りの東京の様子を伝えるニュースだった。

『高速道路の建設は着々と進んでおります』『地下鉄の工事も進んでいます』『新幹線は開業に向けて順調に工事が進んでいます』

「自分のいる足寄とはかけ離れたニュースなんです。『この差はなんだろうか』と考えた時、やっぱりこれは『政治の差』だと思ったんです」

中学校1年生、13歳の時。学校の国語の授業で「将来の夢」をテーマに書いた作文で「将来、政治家になる」と書いた。電気もない、水道もないので水は井戸水、食べ物も貧しい、道路も舗装されていないので土ぼこりが舞う。そんな環境にいる宗男少年にとってラジオから流れてくる大都市「東京」への思いは日に日に募るばかりだった。

1966(昭和41)年3月、地元・足寄高校を卒業した宗男青年は就職組だった。阿寒郡阿寒町(現・釧路市)にある雄別炭鉱に就職が決まっていた。釧路市の記録によると当時の炭鉱は最盛期で、石炭の最大生産量を記録したのは1964年の72万6千トンだったという。

当時は有望だった炭鉱の事務職に内定が決まっていた宗男少年だったが、それでも「東京へ行きたい」「大学に行きたい」という思いは変わらない。しかも足寄から仕事場の炭鉱までは片道半日くらいかかった。足寄から池田まで行き、池田から釧路まで汽車で4時間。そこから車で炭鉱のある山まで2時間の長丁場だ。

「正直、面接を受けに行っただけで嫌だった。だから卒業式が終わって思わず親父に言ったんです。『父ちゃん大学に行きたい』って。おふくろは即座に却下でした。『せっかくいいところに就職できたんだから、そこで頑張れ』と」

ただ、宗男少年の意志は固かった。ついに両親は宗男少年の東京行きを許す。慌てて受験情報誌「蛍雪時代」(旺文社)でまだ受けられる大学入試日程を調べると、残っていたのは拓殖大学の2期試験だけだった。さっそく願書を取り寄せ申し込んだ。

受験日は3月29日。東京までの移動は列車と船だ。

「足寄から夜行に乗って札幌に朝着いて、札幌から特急で函館に夕方到着。函館からは青函連絡船に乗って、青森からまた夜行列車で次の日の朝に上野駅に着く。当時は「はくつる」という列車でね。3月だから移動する人も多くて金も無いから指定席も取れない。一番ありがたかったのは青函連絡船で、船内の場所取りは早い者勝ち。だから走って居場所を確保して、4時間だけは足伸ばして寝れるんです」

中川一郎と出会うきっかけは大学入学時の保証人探し

晴れて拓大政経学部に合格した宗男青年。ただ当時、大学への入学手続きには「東京在住の身元保証人」が必要という壁が立ちはだかる。そこでとっさに親が考えたのが地元の国会議員のつてを使うという手だった。

「地元に横田文治さんという獣医さんがいて、中川一郎先生の十勝農学校の先輩だった。北海道の人間にとっては人様の医者よりも動物の医者の方が大事なんです。家畜で生きてるわけだから」

鈴木氏の両親に頼まれた横田獣医はすぐにダイヤル式の電話を回し、東京の議員会館に電話をかけたという。

「おい中川。君の選挙を一所懸命やってくれた鈴木さんとこの息子さんが今、大学の保証人で困ってるから、お前引き受けてやってやれ」

鈴木氏の保証人欄に中川一郎氏が直筆で名前をしたためた。この時の中川氏はまだ1年生議員だった。中川議員は鈴木氏にこう伝えたという。

「何か困ったことがあれば相談に来なさい。時間があったら遊びに来なさい」

中川議員にここまで優しくしてもらった当時18歳の鈴木青年は「大変な感激」だったという。「特別なことを言われたと思って舞い上がった」。

その日からというもの、鈴木氏は1カ月に1回は議員会館の中川事務所を訪れた。所内は男性2人、女性2人の計4人の秘書がいたが、電話は鳴りやまず常に忙しそうだった。そういう時は「はい、中川事務所です」と自ら電話応対を買って出た。

そんな鈴木氏の機転の良さや天性の才を感じ取ったのか。大学4年生の夏、中川議員は鈴木氏の母親に正式に「秘書として息子さんを預けてほしい」と要請するのだ。

中学生の時「政治家になる」と宣言した鈴木氏に迷いはなかった。就職はすでに決まっていたが、中川議員の秘書になることですでに腹は決まっていた。夏休みが終わり、帰省していた北海道から東京に戻った鈴木青年は9月2日、さっそく議員会館の中川事務所に駆けつけた。

すると、中川議員は鈴木氏の顔を見るなり開口一番、秘書らを前にこう言ったという。

「おい、みんな。明日から秘書になる鈴木君だ」

すでに大学の卒業単位を全て取り終わっていた鈴木青年は9月3日、正式に中川一郎衆院議員の秘書となった。

鈴木宗男インタビュー(第4回)劇場型政治家の片りん ~政治家・鈴木宗男誕生~ に続く。

文/寉見陽平 内外タイムス

《プロフィール》
鈴木宗男(すずき・むねお)1948年北海道足寄町生まれ。拓殖大学卒。大学在学中から中川一郎議員の秘書を務め、1983年の衆院選で初当選。1997年北海道・沖縄開発庁長官で初入閣、1998年内閣官房副長官、1999年自民党総務局長などを歴任。2002年6月、あっせん収賄など計7つの汚職事件で逮捕。2005年に地域政党「新党大地」を結成。2010年9月最高裁で上告が棄却され、喜連川刑務所に収監。2019年の参院選で日本維新の会から出馬し当選(比例区)、9年ぶりに国政に復帰。2023年10月ロシアに訪問したことが問題になり離党。2025年6月自民党に復党。同年7月参院選に同党の比例代表候補として立候補し当選した。

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