• 全国
  • 袴田巖さんの姉ひで子さんインタビュー(前編)死刑の確定で弟は孤立し、妄想の世界に入っていった
  • HOME
  • 全国
  • 袴田巖さんの姉ひで子さんインタビュー(前編)死刑の確定で弟は孤立し、妄想の世界に入っていった

袴田巖さんの姉ひで子さんインタビュー(前編)死刑の確定で弟は孤立し、妄想の世界に入っていった

1966年6月30日未明に発生した「袴田事件」。事件から60年が経過した。事件は、静岡県清水市(当時)のみそ製造会社の専務自宅で火災が発生。消火後、家の中から専務を含む家族4人の焼死体が発見され、遺体からは多数の刺し傷が確認された。

強盗殺人・現住建造物等放火事件として捜査され、同社のみそ工場で働いていた袴田巖さん(当時30歳)が逮捕された。後に証拠はねつ造されたものだったことが明らかになる。巖さんの死刑えん罪を晴らしたのが姉のひで子さんだった。逮捕から無罪を獲得するまで、58年に及ぶ闘いを振り返り、これからの活動方針についても聞いた。

巖さんが釈放されてから約12年、無罪が確定してから2年ほどたった。現在は静岡県浜松市で姉弟2人で暮らしている。

「平穏な日々を送っていて、うれしいという言葉以外、見つからないですね。朝ごはんを食べて、それからまた昼寝をして、午後1時頃から見守り隊のみなさんと一緒にドライブに行くのが日課です。ただ、もう会話はほとんどできなくて、『ご飯食べる?』って聞くと、『うどんでいいよ』くらいのやり取りですね。刑務所にいた時の話は一切しない、私からも聞かないという状況で、そんなこんなで12年たちました」

60年前、ある日突然、弟の巖さんが逮捕された。当時のことをひで子さんは今でもよく覚えている。

「事件のことは職場のテレビで知ったんです。『これ、巖の(働いている)会社じゃない』って。それで心配になって巖に電話したんです。毎週末、実家に帰ってきていたので、巖は『今度の土曜日に帰るね』と言っていましたね。それでも何かに巻き込まれるのではと心配はしていたんです」

弟は4人の人間を殺害した犯人なのか、そうではないのか。巖さんの間近にいたひで子さんだからこそ確信できる出来事があった。

「3日後の土曜日、巖の方が先に家に帰ってきていました。自転車にまたがって、近所の人とにこやかに話をしていたの。それを見て、あの事件とは関係ないなと思って安心したんですよ。夜になって、家族みんなで集まって、『どういう事件なの?』『大変だね』っていろいろと会話してね。それでうちでは(事件のことは)終わっていたんですよ。4人もの人を殺した人間がたったの3日で全く変わらずにはいられない。でも、巖は全然変わってなかった。だから安心していたの」

家宅捜索で刑事は巖さんがくれたみそを持っていった

ひで子さんの思いに反して、事件発生から約1カ月半後の1966年8月18日、巖さんが住居侵入・強盗殺人・放火罪で逮捕される。ひで子さん宅にも家宅捜索が入る。

「私はアパートの六畳一間の狭い部屋に住んでいました。そこへ刑事が3、4人来て、書類を見せるの。「強盗殺人犯、袴田」って書いてあるの。何が何だかさっぱり分からなかった。家宅捜索だって言われたって、何にも出てこないよね。巖が遊びに来た時に持ってきてくれたお土産のみそがあったの。それを(刑事が)持っていった。同時に母親にも、長男、長女、次女の家族全員に家宅捜索が入った。嫁いだ姉さんにも」

巖さんが逮捕され、当初はその現実を受け入れられずにいた。世間から犯罪者の姉として見られ、つらかった時期もあった。

「初めの10年ぐらいはつらかったですね。おどけちゃった(驚いた)っていうか。ある日突然、(巖さんが)犯罪者っていうことになって、ただ、おどけて何が何だか分からないまま10年くらいが過ぎた。それこそ、世間とはちょっとかけ離れたような生活をしておりました」

今でこそ、弟を救った “強い姉”のイメージがあるかもしれない。ただ、巖さんが逮捕された当初は精神的にも不安定な日々を過ごしていた。

「当初は何でこうなっちゃったのかと思って、夜、眠れないんですよ。でも、次の日もまた仕事があるものですから、眠ろうと思ってウイスキーをクイクイと飲んで、寝ていたんです。それを毎日やっていたら、ちょっとアルチュー(アルコール中毒)みたいになって。自分が酔っ払っていたのでは巖を助けるどころじゃない、こっちが先に参っちゃう。それでね、お酒は止めてね。つらいことは自分自身で克服してやっていかなきゃしょうがないから」

弁護士の第一声は「巖さんがポンポンに膨らんでる」だった

家族も警察署で事情聴取をされた。当時の巌さんのことについては詳細に覚えているが、自身のことはうろ覚えのようで、大切な弟のことで頭がいっぱいだったのかもしれない。

「当時の中央警察署に連れて行かれて調べられたの。私は警察のご厄介になるなんて初めてなもんで、怖いとも何とも思わなかった。それでお昼にね、かつ丼をごちそうしてくれたの。食べ終わってから、食べなきゃよかったのかなと思ったけど、朝ごはんも食べていなかったから、お腹が空いていて平気でバカスカ食べちゃったのよ。それは覚えている。聞かれたことは全部忘れちゃった」

それから、巖さんとの面会のため、拘置所に足しげく通うことになる。

「逮捕されても最初の頃はとても元気で、兄と3人で面会行った時は事件のことを一生懸命に話すの。私たちは『うん、うん』って相槌を打っているうちに30分がたっちゃう。面会が終わって、『巖は元気でよかったね』って言って、私たちの方が励まされていたくらいだった」

袴田事件では巖さんの供述がその都度変わり、警察の取り調べについても強要や人格否定、長時間の実施など、さまざまな問題があったと指摘されている。

「(巖さんが)自供をしたっていう翌日、兄と私、弁護士さんで清水の警察に行ったんですよ。そうしたら弁護士さんだけで、私たち親族は面会できなかった。私たちは廊下で待っていたの。しばらくして、面会から帰ってきた弁護士の第一声が『巖さんがポンポンに膨らんでる』だった。だから、相当ひどい目に遭わせたんだと思う。そうしたら、刑事が「医者には見せたから」って言ったの。医者になんか見せてないよ。後になって少しずつ分かってきたことだけれども、どういう調べ方だったのかは巖に聞いても返ってこないからね」

1980年、最高裁判所で上告が棄却され、巖さんの死刑が確定する。死刑判決は無実の人間の精神を徐々にむしばんでいった。

「死刑が確定したら、もうすっかりおとなしくなってしまってね。死刑囚が収容されている拘置所に面会に行ったら、巖が『ひどいところにいるよ』って言うんです。次に私が一人で面会に行ったら、『昨日処刑があった。隣の部屋の人だった。お元気でって言っていた。みんながっかりしている』って。それからはもう、『電気を出すやつがいる、電波を出すやつがいる』とか言うようになって、だんだんと拘禁症がひどくなりましたね」

ずさんな初動捜査が袴田事件を生み出した

拘禁症を患った巖さんは、「現実の世界」と、心を守るために作られた「妄想の世界」を行き来するようになっていく。そして、だんだんと妄想の世界にいる時間が長くなっていった。

「毎月面会に行ってたのですが、3年半ぐらい(巖さんが)『忙しい』とか言って、面会拒否をしていたんです。今思えばね、(独居)房から出ると処刑されてしまうと思っていたんだろうね。猜疑(さいぎ)心も強くなっているから、「本当に面会なのか。処刑されるんじゃないか」と思っていたんじゃないかな。それで孤立して妄想の世界に入っていった。47年7カ月もあんなところにいればね、精神に異常をきたしても当然ですよ」

えん罪が生んだ悲劇。えん罪が二度と起こらないよう、撲滅に向けた取り組みが必要になってくると思うが…。

「えん罪が無くなるということは無理。(えん罪は)昔からあったと思う。みんな、表立って警察に調べられると外見が悪いから内緒にしちゃうでしょ。この頃でこそ、えん罪だってみんな騒ぐようになったけれど、ほとんどの人が泣き寝入りなの。死刑囚じゃなくても泣き寝入りしていると思う。検察に調べられたっていう人は『絶対にえん罪はある』って言うんですよ。人間のやることです。だからなくならない。再審の法改正もそうだけど、検察の扱いは昔のままでしょ。都合が悪ければ、えん罪にしちゃうんですよ」

ひで子さんは、えん罪が無くなることはあり得ないと断言する。しかし、少しでも減らすためには何が必要なのか。袴田事件になぞり、こう指摘する。

「やっぱり初動捜査に問題があると思う。初動捜査をもっときちんとやれば、他に犯人がいるだろうということくらい分かるでしょう。刑事なのだから。それをずさんな捜査をしたからこういう結果になったんだと思う」

《プロフィール》
袴田ひで子(はかまた・ひでこ)1933年生まれ。巖さんの姉。中学卒業後、浜松の税務署に事務見習いとして就職。税務署を退職後、民間の税理士事務所に入り、経理の知識を身に付けた。知人が経営する会社で経理として住み込みで働き、70代まで40年近く勤めた。1966年に巖さんが逮捕されて以降、面会から社会への周知など、全面的なサポートをしてきた。2014年に巖さんが釈放、2024年に無罪が確定した後も、えん罪被害者のための活動を続ける。

関連記事一覧