Mattに性被害の訴え、本人は性的行為自体を真っ向否定…「警察・検察が対応」と犯罪の立証はどう違う
有罪が確定するまでは、無罪と推定される。刑事事件の報道に接するとき、まず大前提に置くべき原則だ。「被害届が出た」「検察で話を聞かれた」という情報を、犯罪が証明されたという意味に読み替えてはならない。
28日、文春オンライン(文藝春秋)は、タレントのMatt氏から性被害を受けたとして、2024年から2026年にかけて警視庁へ複数の被害届が提出されていたと報じた。一方、Matt氏側の代理人弁護士は、当事者との面識等は認めつつ、性的行為自体を否定している。
電子版の公開冒頭には、申告者の一人が検察庁で長時間の聴取を受けたと話す記載もある。しかし、捜査機関が対応したことと、犯罪が立証されたことは別問題である。
ヤマトリノが保釈金250万円で保釈 お金は戻るのか、保釈中の制限と「海外逃亡」の代償
被害届と告訴――受理は捜査開始のきっかけに過ぎず犯罪認定ではない
告訴は、犯罪事実を申告したうえで、犯人の処罰を求める意思表示である。被害届は、捜査機関に犯罪被害を申告するものだが、告訴の一種として取り扱われるのが実務上の運用だ。
不同意性交等罪は、告訴がなければ起訴できない「親告罪」ではない。相談や情報提供などが捜査の端緒になることもあり、告訴だけが刑事手続の入口ではない。
書面の「提出」と正式な「受理」も同じではない。ただし、要件を満たした適式な告訴は受理すべきであり、警察が自由に門前払いしてよいものではない。警察庁の通達も、必要な要件を確認し、整っている告訴等は速やかに受理するよう求めている。
受理は、申告内容が真実だという保証ではない。逆に、受理されていないことだけで被害がなかったともいえない。検察での聴取についても、起訴・不起訴を判断するための証拠収集と、犯罪成立の確定を区別する必要がある。
今回は性的行為があったこと自体が争われている
今回、特に注意が必要なのは、Matt氏側が「性的行為はあったが、同意もあった」と説明しているのではなく、性的行為そのものを否定している点だ。
したがって、性的行為の存在を前提に「同意の確認が不十分だったのではないか」「どのような行為なら許されたのか」と論評すれば、まさに争われている事実を、既に確認されたものとして扱うことになる。
まず、行為があったのか。その判断では、日時や場所、当日の行動、連絡履歴、映像、関係者の供述などを検討する必要がある。
例えば、面識があることや同じ場所にいたことが確認できても、それだけで性的行為まで証明されるわけではない。行為の存在を示す証拠と、その行為が犯罪に当たることを示す証拠も、分けて考える必要がある。
一方、直接の映像がなければ立証できない、ということでもない。供述も証拠であり、具体性や重要部分の一貫性、他の証拠との整合性などから信用性が検討される。ただし、周辺的な記憶の食い違いだけで虚偽と決め付けたり、詳しく語られているから真実と判断したりするのも適切ではない。
Matt氏側が否定していることだけで疑惑が解消するわけではない。しかし、申告があったことだけで行為の存在が確定するわけでもない。報道を読む私たちが見ているのは、通常、証拠の全体ではないのである。
逮捕の有無や時間の経過から分かること
実務上、逮捕の有無や捜査の経過は確認すべき事情だ。ただし、それだけで起訴・不起訴の見通しは決まらない。
逮捕には犯罪の嫌疑に加え、逃亡や証拠隠滅のおそれなど、身柄拘束の必要性が関わる。逮捕せずに捜査を進め、起訴する事件もある。逮捕されていないとしても、それだけで疑いが弱いとはいえない。
検察は関係者から改めて事情を聴取し、補充捜査を行うこともある。時間が経過しているとしても、それが証拠収集や供述の検討に必要な期間なのか、起訴に慎重な判断がされているためなのかは、外部からは分からない。今回も、確認できた公開情報だけでは送致時期や具体的な処分の見通しまでは判断できない。
刑事裁判で犯罪事実を合理的な疑いを入れない程度に証明する責任は、検察官にある。被告人が犯罪の不存在まで証明する義務を負うわけではない。
「本当に無実なら証拠を出せるはずだ」「公に説明しないのは認めているからだ」という要求は、この原則とは異なる。世間に説明しないことと、捜査機関に説明していないことも同じではない。
同時に、被害申告者も、捜査の入口で必要な証拠をすべてそろえる責任を負うわけではない。不起訴や無罪になっても、それだけで虚偽申告が証明されたことにはならない。
サムネイルによる「犯罪者認定」の危険
昨今、著名人をめぐる疑惑報道を取り上げ、被害を訴える側の主張を扇情的なタイトルやサムネイルで強調する動画が散見される。
相手の写真と刺激的な表現を組み合わせ、一方の主張だけを大きく掲げれば、視聴者は犯罪が既に確認されたかのように受け止めかねない。動画の途中で否定コメントを紹介したり、説明欄に「疑惑」と記載したりすれば、それで十分というものではない。
特に今回は、性的行為の存在自体について説明が対立している。申告内容を断定調で見せれば、捜査や裁判で検討すべき争点を、サムネイルの段階で一方的に決着させることになる。
当事者の主張と、第三者が裏付けた事実は違う。「被害者がそう言っている」「週刊誌が報じた」という理由だけで、犯罪者認定を広めてよいわけではない。
申告を真剣に受け止めることと、反論や未確認事項を省いて有罪の印象を植え付けることは、明確に区別すべきである。再生数を得るための見せ方が、社会的制裁に加担していないかを問う必要がある。
告発を示談の切り札や「刑罰の代わり」にしない
この注意は、被害を訴える側にも当てはまる。以下は、今回そうした事情が確認されたという指摘ではなく、一般論である。
起訴に慎重な見通しを示されたり、示談交渉で希望する回答を得られなかったりしても、それだけで報道機関への告発が不当になるわけではない。刑事責任の立証と、報道の社会的意義は別問題だからだ。
しかし、「刑事処罰が難しいなら世間に制裁してもらう」「希望額を払わなければ公表して仕事を失わせる」という発想で、告発や報道を利用することは避けるべきである。
正当な賠償請求でも、どのような圧力をかけてもよいわけではない。公表による打撃を材料に金銭的な譲歩を引き出そうとすれば、要求方法自体の適法性が問われる。刑事処罰への不満を、証拠と手続による判断を経ない私刑に置き換えてはならない。
被害の訴えを真剣に受け止めることと、訴えられた人を犯罪者と決め付けることは違う。必要なのは、双方の説明と証拠を慎重に検討することである。
事実認定は、世論の多数決で行うものではない。再生回数も、「いいね」の数も、犯罪の証明にはならない。その一線を越えたとき、告発への共感は、私刑への加担に変わり得る。
文/松本理平 内外タイムス






