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鈴木宗男インタビュー(第2回)「辺野古沖埋め立ては自然に対する冒とく。沖縄に申し訳ない」 沖縄を思うからこその誤算

北海道出身の鈴木宗男参院議員はなぜそこまで「沖縄」のために心血を注ぐのか。先の大戦で大規模な地上戦となった「沖縄戦」の犠牲者に北海道出身者が多かったことは前回書いた。

そしてさらにもう一つ、鈴木氏が「沖縄」を強く意識することになる大切なエピソードがある。それは今でも沖縄の懸案となっている名護市「辺野古」の問題にも通じるものだ。その話をするには1978(昭和53)年にまで遡らなければならない。当時の鈴木氏は中川一郎農水大臣の下、秘書官を務めていたころだった。

鈴木宗男インタビュー(第1回) 「沖縄」のために奔走する北海道出身の政治家 から続く。

議員秘書時代に発揮した「ムネオ節」が今に続く普天間移設問題の原点に

ある日、中川農水相のところに沖縄県から名護市議会議員団が陳情に訪れた。当時も今も沖縄県で最も多く栽培されている作物は「サトウキビ」だ。彼らは中川大臣に政府の保証価格だった「サトウキビ」の値段が維持されるよう、お願いに来たのだ。当時、日本の砂糖市場は北海道のビート(てん菜・砂糖大根)と沖縄のサトウキビ、海外からの輸入品の需給によって価格が左右された。

農水省の役人は冷たかった。「大臣は通例、市議団の陳情は受けない」と、彼らを帰らせようとしたが、たまたまその場に鈴木氏が居合わせたことが彼らにとっては幸運だった。

「たまたま私が大臣室にいたんですね。農水省の役人は、まるで犬を追い払うがごとく市議団にひどい扱いをしているので、私は叱りつけた。後に水産庁長官にまで出世した秘書官に『遠い沖縄から来たのに、なんでそんな粗末な扱いをするんだ』ってね」

当時、農水省の慣例として、市議会議員団などからの大臣への陳情は通常受けないというルールがあった。だが鈴木氏の前ではそのような役人のルールは通用しない。

「『今、大臣いるじゃないか』と秘書官に言ったら『いや、アポイントがありません』とか『大臣と市議会議員が会った慣例はありません』と言うから『ばか者。そんなことにこだわるな。俺が会わせる』と言って会わせた」

これまでの慣例を破って、鈴木氏の独断で中川農相と名護市議会議員団を引き合わせた。そしてまた、その時の市議団に対する中川大臣の対応は「見事だった」と鈴木氏は振り返る。

「アポイントもない。事前のレクチャーも受けてないのに『皆さんご安心ください。北海道のビートの値段は下げても、沖縄のサトウキビは守りますから』と、こう言ったんです」

これには鈴木氏も思わず「びっくり」。中川大臣の地盤は旧北海道5区で、釧路、帯広、北見、網走市などを含み、当時は日本一広い選挙区とも言われていたところだ。

「大臣室は広い部屋なので、つい北海道の人はいないかと焦りましたね。もしいたら先生の選挙に影響しますから。『中川は何を考えてるんだ』みたいなことを言われるので、見渡して誰もいなくてほっとしてね。とにかく中川先生は親切に対応したんです」

実はその時、陳情団の団長だったのが比嘉鉄也氏で後の名護市長となる人物だった。

19年前の恩返しも辺野古沖の判断は「クエスチョン・マーク」

それから19年後の1997(平成9)年9月、鈴木氏は第2次橋本龍太郎改造内閣で国務大臣北海道開発庁長官・沖縄開発庁長官だった。あいさつのため、沖縄県の名護市役所を訪問した時に出迎えてくれたのが市長として3期目の比嘉氏だったのだ。

その時、比嘉氏は鈴木氏にこう語りかけたという。

「鈴木大臣、あなたの親切で今、私はこの地位にあります。あの時の農水省の役人は非常に冷たかった。しかし、たまたまあなたがいて、中川大臣に取り次いでくれた。中川大臣はとても私たちを大事にしてくれた。あの時の義理は必ず果たします」

同年12月、比嘉市長は東京の首相官邸で橋本総理と会い「普天間の受け入れは名護でいたします」と表明する。今につながる米軍普天間基地の移転問題はここが始まりだった。その時、比嘉市長が橋本総理に手渡した古くから沖縄に伝わる歌・琉歌がある。

「義理んすむからん ありん捨ららん 思案てる橋の 渡りぐりしや(義理か感情のどちらかを選ぶのは難しい)」

当時、名護市は米軍普天間基地移設受け入れの是非をめぐって二分していた。比嘉市長が官邸を訪れた3日前にその是非を問う住民投票が行われ、結果は反対が過半数を占めた。結局、橋本総理に基地受け入れを表明した比嘉氏は辞職し、翌1998(平成10)年2月の市長選には助役だった岸本建男氏を指名し、比嘉市政は次の岸本市政へと引き継がれることとなった。

米軍普天間基地の名護移設については、鈴木氏は今でも忸怩(じくじ)たる思いだ。あれから約30年経っても辺野古沖の米軍基地移設はゴールが見えない。そもそも鈴木氏が考えていたのは、米海兵隊の駐屯地キャンプ・シュワブの一部を使って丘を削り、滑走路をつくる案だった。

「丘を削って山を平らにすれば、十分な長さの1500メートルの滑走路ができる。これだと約2千億円でできるし、時間もかからないということで名護になったわけです。今は辺野古沖を埋め立ててますけど、私はこれは失敗だと思っている。沖縄といえば青い空、海なんです。しかもジュゴンもいたんです。私はやはり辺野古沖の移設は自然に対する冒とくだという気持ちもありますし、沖縄の皆さんに申し訳ない」

2001年4月26日の小泉純一郎政権の発足以降、当時衆議院運営委員長だった鈴木氏は田中真紀子外務相との対立や自身にかけられた一連の鈴木バッシングによって出世コースから脱落することになる。当時を振り返って鈴木氏は言う。

「私がもし国策捜査に遭わなければ、何があっても辺野古沖に(米軍基地を)持ってきませんでした。辺野古沖の判断が正しい選択だったかというとクエスチョン・マークです」

鈴木宗男インタビュー(第3回)誕生~生涯の師・中川一郎との出会いまで に続く。

文/寉見陽平 内外タイムス

《プロフィール》
鈴木宗男(すずき・むねお)1948年北海道足寄町生まれ。拓殖大学卒。大学在学中から中川一郎議員の秘書を務め、1983年の衆院選で初当選。1997年北海道・沖縄開発庁長官で初入閣、1998年内閣官房副長官、1999年自民党総務局長などを歴任。2002年6月、あっせん収賄など計7つの汚職事件で逮捕。2005年に地域政党「新党大地」を結成。2010年9月最高裁で上告が棄却され、喜連川刑務所に収監。2019年の参院選で日本維新の会から出馬し当選(比例区)、9年ぶりに国政に復帰。2023年10月ロシアに訪問したことが問題になり離党。2025年6月自民党に復党。同年7月参院選に同党の比例代表候補として立候補し当選した。

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