A級戦犯の合祀めぐる内幕、当時の靖国神社宮司の肉声録音テープをNHKが公開
神話の神々や地域の歴史的偉人などを祀っている一般の神社とは歴史的背景が大きく異なる靖国神社。そのため、毎年8月15日の終戦記念日になると政治的・思想的側面からクローズアップされる。
今年は高市早苗首相の「遥拝(ようはい)」について是非が議論となったが、先日放送されたNHKスペシャル「靖国神社 秘録 空白の戦後史」が大きな話題となっている。
A級戦犯合祀に関する会議の音声テープが紹介され、普段なかなか見ることができない神社内部の映像などもあり、興味深い内容だった。戦没者を神として祭る「合祀」(ごうし)が靖国神社の根幹で、新たに判明した戦没者の合祀は戦後81年経った今でも行われている。
靖国神社が「コスプレ」による参拝を禁止 過去には「怖くて参拝出来ない」という声も
1952年にサンフランシスコ平和条約で国際的に東京裁判の結果を受諾し社会復帰を果たしながら、5年後の1957年には戦犯合祀の検討を始めていたことが明らかになった。
記録にあるのは、役所(官僚)主導でBC級戦犯を先に合祀する方針で、捕虜虐待や住民虐殺などの犯罪行為に対して反証しようとしていたことがわかる。
厚生省の元官僚で戦後処理を担当していた竹之下和雄氏は取材に対して「そういうこと耳に入ってくる立場にいたが、初めて聞いた」と驚きを隠せない様子だった。
そして、厚生労働省は公文書の記録を認めつつ、「合祀の決定は靖国神社が行うもので、旧厚生省は関与していない」と回答した。
1959年4月、厚生省引揚援護局はBC級戦犯の名簿を送り、神社は346人を合祀した。国際社会に対しては戦争裁判を受諾した日本、国内では戦犯が神として合祀されたということである。
しかも、国が主導しておきながら、その責任をすべて民間組織であるはずの一宗教法人に負わせるやり方。これが今に続く二重構造の始まりだったのである。
戦後の合祀体制を主導したのは引揚援護局の元幹部・美山要蔵氏だったが、1962年に退官する前にA級戦犯の名簿だけは神社に送らなかった。
神社運営の重要事項が諮られる「総代会」は国会議員や財界の重鎮、元官僚など10人で構成され、合祀の判断も議論される。美山氏退官から4年後、1966年に厚生省から神社にA級戦犯名簿が送られた。議事録からは合祀への判断で総代会が揺れ続けていたことがわかった。
当時、第5代宮司の筑波藤麿氏は合祀に慎重で、そのあたりの歴史的経緯は2006年に日本経済新聞や毎日新聞で明らかになっている。
第6代宮司・松平永芳氏の生々しい肉声の中身
筑波氏が亡くなった後、1978年に松平永芳氏が第6代宮司に就き、部下に語った東京裁判への強い反発の録音テープが今回初めて公開された。
「本来A級とかB級というのは向こう(連合国側)が勝手に決めたことで、我々がA級B級の枠でとらわれたって仕方がない。基本の方針は戦犯の方も全部国に殉じたということで合祀をということです」
従来知られた話を大きく塗り替えるような新事実が出てきたわけではないものの、やはり、こうした肉声は生々しい。
「天皇陛下はなぜ靖国参拝しないのか」ということが今でもしばしば話題になるが、あらためて日経がスクープした元宮内庁長官・富田朝彦氏が記した「富田メモ」を紹介する。昭和天皇がA級戦犯合祀についてこう述べている。
「筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが、松平(慶民)の子の今の宮司(松平永芳)がどう考えたのか、易々と、松平は平和に強い考えがあったと思うのに、親の心子知らずと思っている。だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」
X(旧Twitter)には、番組を要約するような的を射る書き込みがあり、NHKの制作意図もここにあったのではないだろうか。
《皇族出身の筑波藤麿宮司が社会的影響を懸念して「宮司預かり」として長年封印していたA級戦犯の合祀が、1978年に元海軍軍人の松平永芳が宮司に就任したことで、わずか2カ月で断行された点も象徴的。遺族会などの働きかけがあったとはいえ、東京裁判を不当とみなす旧軍人個人の歴史観が、組織の慎重論を容易に覆し、その後の深刻な外交問題を引き起こす引き金となった》
文/横山渉 内外タイムス






