是枝裕和監督による実写版「ルックバック」とアニメ版「ルックバック」との決定的な違いとは
藤本タツキの同名漫画を、国際的な評価を確立してきた名匠・是枝裕和が実写映画化した「ルックバック」が現在、全国公開中である。
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すでに押山清高監督によるアニメーション映画版が先んじて公開され、高く評価されているだけに、なぜもう一度実写映画で製作したのか、という疑問も出てくるかもしれない。その答えの一つとして、この映画が「絵を描くこと」をめぐる情熱の物語であると同時に、「誰かに自分を見つけてもらうこと」の物語でもあり、まさに実写映画としても適しているという点にあるのではないか。
主人公の藤野は、学年新聞に漫画を描いている。クラスメイトから評価され、自分には才能があると思い始めている。ところが、ある号に掲載された京本の漫画を見た瞬間、その自信は崩れる。自分よりも圧倒的に絵がうまい人間が、同じ学校にいる。藤野は京本を意識するようになり、小学校の卒業という出来事を機に、二人は出会い、ともに漫画を描くようになる。
ここで重要なのは、二人が最初から「友だち」だったわけではないことだ。藤野は京本の絵を見ることで、初めて自分の外側にある才能を知る。京本もまた、藤野の漫画を見ることで、自分にはないものを見つける。二人を結びつけるのは、まず「相手の作品に衝撃を受ける」という、それぞれの内側で起きる出来事なのだ。
キャラクター性と身体性との違い
アニメーション版では、漫画のコマそのものが動き出すような映像によって、この二人の関係が緻密に描かれた。一方、実写版では、二人の少女を演じる俳優の顔や身体が、スクリーンに現れる。そこには、漫画のキャラクターとして描かれた藤野や京本とは別の、現実の人間の存在感がある。
実写映画の面白さは、俳優を完全なキャラクターへと変えてしまえないところにある。少し視線がずれる。歩き方が違う。表情が、漫画の線からわずかにはみ出す。その「はみ出し」こそが、俳優によって演じられているはずの二人の少女を、単なる物語上の人物ではなく、どこかに本当に存在しているかのように感じさせる。
これは、もともとテレビ・ドキュメンタリーの監督からキャリアを始めた是枝が、これまで撮ってきた一連の映画群ともつながっている。「誰も知らない」、「海街diary」、「万引き家族」など、是枝の映画では、人物を説明しすぎないことが大切にされてきた。家族だから分かり合える、といった決まりきった答えを与えず、ただ目の前にいる人間を見ようとする。その人が何をなそうとしているのか、最後まで分からない部分を残す。
藤野と京本は、互いを完全に理解しているわけではない。それでも、相手の作品を見ることで、相手の存在を知る。だからこそ、計り知れない悲劇が訪れた瞬間、藤野はもう一度「見る」ことになる。過去を振り返り、もしあのとき違う選択をしていたら、と考える。その想像は、失った人を取り戻すためのものではない。もういない相手について、それでもなお考え続けるためのものだ。
漫画でも、アニメでも、実写でも、観客は画面のなかの誰かを見る。実写映画では、生身の俳優がそこにいることで、その誰かを、よりはっきりと意識しやすい。是枝が「ルックバック」で撮ったのは、漫画の物語を現実に移し替えることだけではない。誰かの才能に憧れ、誰かに自分を認めてもらい、そして失った相手をいつまでも見つめ続ける。そんな、人と人とが出会うことの不思議さだったのではないだろうか。
文/小城大知 内外タイムス






