映画の問題は、社会の問題である――「リュミエール・サミット」が日本に問いかけるもの
7日、フランス南部のサン=ポール=ド=ヴァンスで、フランスのエマニュエル・マクロン大統領と韓国の李在明大統領が共同議長を務める「リュミエール・サミット」が初めて開催された。映画、映像、テレビ、ゲームなどの未来を考える初の国際サミットで、60を超える国・地域や国際機関から200人以上の関係者が集まった。
映画「オデュッセイア」は現代において、戦争後、人間はいかに日常に帰還するのかを突き付ける
サミットの成果として採択された「リュミエール宣言」では、AIや著作権、映画製作への公的支援、作品の流通と発見可能性、映画館、映画遺産の保存、表現の自由、ジェンダー平等、持続可能な製作、映像教育など、映画を取り巻く環境全体について15項目の原則が示された。
本サミットでは、「今後10年、動く映像の価値をどのように創造し、共有し、持続させるのか」という大きな問いが示され、AIと創作、クリエーターの権利、製作資金、配給と興行、ストリーミング、映画祭、映画遺産、ジェンダー、表現の自由、そして若い世代の教育までが議論の対象となった。
つまりこれは、「どんな映像を作るべきか」を考える会議であると同時に、そもそも誰が映像を作ることができ、どの作品が残り、どの作品が観客に届き、私たちは何を見ることになるのか――それを問う会議でもあったともいえよう。そして、この問いは、日本に置き換えてみても、決して遠い話ではない。
たとえば今年6月、日本では公正取引委員会と内閣府が、映画・アニメの制作現場における取引の適正化についての指針を公表した。背景には、クリエーターが安心して働き続けられる環境がいまだ十分に整っていないという問題がある。映像という「作品」の価値を語る以前に、その作品を作る人間が適切な条件で働けなければ、産業そのものが持続しない。
AIについても同様である。日本では文化庁がすでに、生成AIと著作権についての考え方を整理している。だが問題は、誰の作品をAIが学習し、そこで生まれた価値を誰が受け取るのか。
AIを拒絶せずに、「人間による創造」を映画産業の基盤とする
そして、人間が作った作品とAIによって生成された映像を、観客はどのように区別し、評価するのか。リュミエール・サミットの宣言もまた、AIを拒絶するのではなく、技術を受け入れながら「人間による創造」を映画産業の基盤として守ることを掲げた。
サミットでは、推薦アルゴリズムなどによって作品との出会いが左右される状況を背景に、「誰が何を見るのか」という問題も議論された。
一般社団法人日本映画製作者連盟によると、日本の映画館は2025年末時点で3697スクリーンある。しかし、その内訳を見ると3305スクリーンがシネコンであり、単館系・ミニシアターなどは392スクリーンにとどまる。もちろん、シネコンを否定する話ではない。
ただ、巨大な作品が多数のスクリーンを占める一方で、規模の小さな作品がどのように観客へ届くのかという問題は残る。映画の「多様性」を守るとは、作品を作ることだけではなく、作品が上映される場所を守ることでもある。
そして、未来だけでなく、過去の映像も問題になる。リュミエール・サミットでは、世界の映画遺産を守ることが重要な議題となった。日本でも、国立映画アーカイブが2026年3月末時点で9万875本の映画フィルムを所蔵しているが、映画の保存には、物理的なフィルムの維持だけでなく、デジタル化や復元、資料の継承という長期的な課題がある。
一方で、日本の映画産業が世界へ進出する動きもある。たとえば東宝は2025年12月、欧州展開の拠点として英国に欧州統括会社TOHO Europeを設立し、アニメ配給を手がけるAnime Limitedを傘下に収めるなど、映画・アニメの海外配給やIP展開を強化している。サミットでは、フランスに新支社を設立することも発表された。
映画をめぐる問題は、AI、労働、教育、産業、地域格差、文化政策、国際交流、アーカイブといった、一見ばらばらの問題に見える。しかし、それらを一つにつなぐものこそ、「私たちはどのような映像文化を次の世代に残すのか」という問いなのだと言える。
リュミエール・サミットが示したのは、映画を「文化産業」という一つの領域に閉じ込めることではない。映画を作ること、見ること、残すこと、そして誰かと共有すること。そのすべてが、現代社会のあり方そのものと結びついているという事実である。映画について考えることは、結局のところ、私たちがどのような社会を生きたいのかを考えることでもあるのかもしれない。
文/小城大知 内外タイムス






