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「梨本さんがそうなら、ウチも」…旧宮家から始まった戦後皇室の火葬

上皇陛下の「終活」についての社会的関心がにわかに高まっている。

宮内庁では陛下のご意向を受けて、一般の告別式にあたる御葬送の儀式「葬場殿の儀」の規模を大幅縮小することを検討している――。去る9月2日、NHKがそんなスクープを報じたからだ。

上皇の「葬儀縮小発言」の意図とは「大喪の礼」にみる皇室の時代を反映する能力

上皇陛下といえば、ご在位中の平成25(2013)年に「御陵の簡素化という観点も含め、火葬によって行うことが望ましい」というお気持ちがすでに公表されている。

歴代天皇のうち最後に火葬された方は、安土桃山時代から江戸時代初頭にかけて在位した後陽成天皇(上皇)である。本当に実現すれば約400年ぶりであり、宮中御用の魚屋・奥八兵衛の涙ながらの懇請を受けて、大の仏教嫌いであった後光明天皇のために土葬に復して以来の大変革だ。

そんな話題性もあって、火葬が望ましいというご意向が公表された当時は、今以上に大きく注目されていたことが思い出される。

いずれにせよ、上皇陛下のお気持ちを踏まえた新たな御喪儀の形は、上皇ご夫妻のみにとどまらず、今上陛下や秋篠宮殿下もご参考になさる後世の先例となることであろう。

さて、この御喪儀の簡素化、とりわけ火葬を復活させるという歴史的転換についてだが、実は昭和22(1947)年秋に皇籍を離れた伏見宮系の「旧11宮家」からも小さからぬ影響を受けているようだ――。

一般皇族も長く許可されなかった火葬

前提知識として、荼毘(だび)に付されなかったのは天皇に限らず、一般皇族も同様であった。具体例として、まずは明治31(1898)年に薨去(こうきょ)した山階宮晃親王の事例を紹介したい。

江戸時代後期に生まれた山階宮晃親王は、慣習に従って門跡寺院に入って、幕末に還俗したという経歴の持ち主であり、かねてより帰依する仏式による葬儀を望んだ。その遺言書には「荼毘之作法」などの箇条もあり、火葬への思いが明確に示されていた。

曰く、「晃死後、速ニ内〻ニ而火化ニ致シ、白骨ヲ曲物三ツニ分チ入レヲキ……」。現代語訳するまでもなく、この文意は誰もが明確に読み取れるであろう。

遺言書開封の立会人を務めた弟・小松宮彰仁親王と、宮家を継いだ山階宮菊麿王は、遺旨を実現させたいと考えた。しかし当時の宮内省は、明治維新後の「古式」に則った典礼に乱れが生じるとして、葬儀以外はすべて遺言どおりにして差し支えないとしつつ願い出を却下したのだった。

続いて、太平洋戦争末期の昭和20(1945)年に薨去した閑院宮載仁親王の事例を紹介しよう。

次男(長男は夭折)の春仁王は、すでに万死の床に臥していた父について、敗色濃厚の時局ゆえ、簡素化のために火葬にしたいと考えた。「皇族全般の例ともなり、私一個の独断でも決しかねる」からと三笠宮崇仁親王、朝香宮鳩彦王、東久邇宮稔彦王にも相談し、賛意を得られていたそうだが、結局はこれも土葬とされたのだった。

閑院氏の著書「私の自叙伝」によれば、父の火葬を断念することとなったのは、事務を司る宗秩寮総裁から次のような返答があったためだという。

「従来皇族はもちろん、天皇でさえも火葬の例はあり、理論上はなんらさしつかえないが、宮内省の総合意見としては、なるべくならば慣例どおり、土葬を可とする」

山階宮と閑院宮は、いずれも伏見宮家の血筋の皇族だ。伏見宮系も含めて、たとえご本人やご遺族が火葬をお望みになったとしても、許可されない時代が長く続いたのである。

近代皇室の火葬は「旧・梨本宮家」から始まった

転機となったのは、敗戦後の昭和26(1951)年1月6日に営まれた旧皇族・梨本守正氏――かつての梨本宮守正王――の葬儀だ。未亡人となった伊都子夫人の著書「三代の天皇と私」を参考にしつつ、以下に詳述しよう。

梨本氏は、香淳皇后の父・久邇宮邦彦王の弟であり、昭和天皇にとっては義理の叔父にあたる。王女を旧韓国皇室である李王家に嫁がせたこと、また伊勢神宮祭主などを務めたことが災いし、A級戦犯の容疑者として巣鴨プリズンに収容されたことで知られている。

そんな彼は、前年12月29日に参内してからわずか数日後の1月1日に急逝した。訃報に接した昭和天皇は「宮は暮に来たではないか」と絶句し、「長く功労のあった宮であるから、丁重に取りはからうように」と仰せになったという。

伊都子夫人曰く、「皇族なら豊島ケ岡に埋葬されますが、臣籍に降下した今ではそれも危いものでした。だが陛下のご沙汰により、皇族なみの待遇を受けることができたのです」。

ところで梨本氏は、皇籍離脱の際に「死んだ時には火葬にしてくれ。そうすれば土地も少なくてすむからね」と夫人に改まって語っていた。皇室と旧宮家の親睦団体「菊栄親睦会」に出席した際にも「死んだら火葬にするんだよ」と笑いながら話していたそうだ。

そのために伊都子夫人は火葬を要望し、やはり拒否反応を示す宮内庁を納得させるのに苦労したという。曰く、「宮内庁はなかなかウンとはいいません。豊島ケ岡ならば土葬なのです。それをやっと火葬の許可をとりました」、「近世において皇族の火葬は宮様が最初でした」。

ここで重要なのが、梨本氏は旧皇族51人のうち初めての物故者であり、その葬儀が旧11宮家すべての葬儀の手本となったということだ。これ以降、他の旧宮家でも「梨本さんがそうなら、ウチもそうしよう。お墓の場所もとらないから……」と、逐次火葬することになったそうである。

将来の御喪儀について、宮内庁は「今の社会では、既に火葬が一般化していること」を理由の一つに挙げていたが、その「社会」の中には、宮中において皇族に准ずる位置付けがなされてきた旧宮家も含まれているというわけだ。

そして内廷へ…

梨本氏の逝去から約2年後の昭和28(1953)年1月4日、長く肺結核に苦しんでいた昭和天皇の長弟・秩父宮雍仁親王が薨去した。

秩父宮はご遺言で「火葬にすること」をお命じになり、さらに「解剖に附してもらいたい」、「如何なる宗教の形式にもならないものとしたい」ともご希望になった。これらがかなえられた葬儀は当時、異例ずくめのものとして非常に大きな話題になった。

しかしながら、とりわけ火葬が認められた件については、梨本伊都子夫人も示唆しているように、すでに旧皇族――今なお豊島岡墓地への埋葬を認められている――の間で行われた先例があることもプラスに作用した、と考えるのが自然であろう。

時は流れて昭和62(1987)年2月10日には、秩父宮のすぐ下の弟・高松宮宣仁親王も荼毘に付されている。

「白骨となりはてましゝ君をいま 三笠宮とひろふ悲しさ」(喜久子妃のお歌)

皇族の火葬はその後も、秩父宮勢津子妃、高円宮憲仁親王、高松宮喜久子妃、寛仁親王、桂宮宜仁親王、三笠宮崇仁親王、そして三笠宮百合子妃と続いている。ここまでくると、もはや土葬されるほうが例外的だといってもよいほどだ。

これまでほとんど指摘されてこなかったが、上皇陛下が火葬のご意向をお示しになったことは、旧宮家――皇籍離脱したがゆえに万事を簡素化せざるをえなかった――から始まった薄葬の流れが、いよいよ内廷にも及びつつあるということなのである。

皇室と旧宮家は、法律上の身分は変わろうとも深い関係を保ち続け、互いに影響を及ぼし合ってきた。天皇家における火葬の復活も、その代表例の一つだといえるだろう。

文/中原鼎 内外タイムス

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