映画「ゴジラ-0.0」で進化した破壊の快楽と、日本の戦後で破壊が意味するもの
3日、ゴジラシリーズ最新作「ゴジラ-0.0」(山崎貴監督)が全国公開された。本作品は世界的ヒットとなった前作「ゴジラ-1.0」から2年後を描く続編だ。
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2023年に公開された「ゴジラ-1.0」は日本国内で興行収入76.5億円を超え、第96回アカデミー賞では日本映画として初めて視覚効果賞に輝いた。その続編として世界中で高い注目を集めてきた本作は、9月に第64回ニューヨーク映画祭SpotLight部門のオープニング・ガラ作品として世界初上映され、現在開幕中の第39回東京国際映画祭でもセンターピース部門に選出された。
1日にはヒューリックホール東京で公式先行上映が行われ、上映前の舞台あいさつに神木隆之介と浜辺美波が登壇した。この一般上映に並行して、プレス・業界関係者向けのP&I上映も同館で実施され、筆者はその機会にひと足先に本編へ触れた。
前作と本作の双方にとって重要な街・銀座で本作を見ることには、特別な意味がある。スクリーンに映し出される破壊の舞台が、現実の東京の地理と生々しく重なってくるからだ。
物語は、ゴジラを葬ったはずの日本に、新たな巨大怪獣キングギドラが現れるところから幕を開ける。長野・松本に出現した怪獣を前に、敷島(神木)や野田(吉岡秀隆)らは対処を試みるが、作戦は失敗。ギドラは変貌を重ね、熱線で家屋も人も焼き払いながら各地を破壊していく。
やがて、倒したはずのゴジラが生きていたことが判明する。敷島の妻・典子(浜辺)の秘密も絡む中、敷島たちは村上博士(田中泯)が考案した共鳴波の装置を用いてゴジラをおびき寄せ、前作で壊滅した銀座を舞台に、2体の怪獣を激突させようとする。復興の途上にある戦後日本を、ふたたび巨大な破壊が襲うのだ。
まず目を奪われるのは、VFXの進化である。キングギドラの圧倒的な体躯と破壊力、それに抗うゴジラの動き、空を飛び交う航空機や兵器など、前作で確立された映像表現が、さらに一段引き上げられている。それは、単に画面の情報量や精細さが増したのではない。怪獣の巨体が都市空間に及ぼす衝撃が、観客が肌で実感できるかたちで描き出されるのだ。
崩れ落ちる建物、砕ける舗装、逃げ惑う人々、そして怪獣同士の攻防が、一つの連続した運動として結びついていく。松本から各地へ、そして銀座へと破壊が移動していくにつれ、巨大な存在が現実の街へ侵入してくる感覚が、見る者の身体にまで迫ってくるだろう。
戦争と戦後という主題を改めて問い直す
だが、本作の射程は技術的な進化だけにとどまらない。むしろ注目すべきは、シリーズの原点に立ち返りながら、戦争と戦後という主題を改めて問い直している点だ。ゴジラはそもそも、水爆実験の恐怖を背景に生まれた存在である。「ゴジラ-0.0」でも物語の根底にあるのは、原爆の記憶や戦後日本のあり方、そしてアメリカとの緊張関係である。
田中泯演じる村上博士は、1945年8月6日、広島で被爆し家族を失った男である。その癒えることのない歴史の重みを、彼は身体を使った「オドリ」や「笑い」によって、ほとんど狂気のように体現してみせる。怪獣映画のなかに異質なリズムを持ち込む村上の姿は、戦争の記憶が決して過去のものとして片づけられないことを、観客に突きつける。
新たに加わった青山(長澤まさみ)の存在も、物語に別の広がりをもたらす。前作から続く人物たちの関係に新たな視点が差し込まれ、日本社会の復興と、その裏にひそむ矛盾が浮かび上がる。だが、ようやく手にしかけた日常は、ゴジラの出現によって再び脅かされる。
戦争は終わったはずなのに、破壊は終わらない。本作における「戦後」とは、単に戦闘が停止した状態ではなく、過去の暴力が形を変えて現在に反復されつづける時間なのではないか。
ゴジラ映画における破壊は、つねに恐怖と魅惑という二つの顔を帯びてきた。VFXによりその美学を確立させた本作は、そのスペクタクルを極限まで押し広げながら、破壊そのものを「美しく」見せることの危うさもまた、シリーズが背負ってきた歴史のなかに丁寧に置き直している。圧倒的な映像の快楽の、そのさらに先にあるもの。それは、終わらない戦争と、終わらない戦後の風景なのかもしれない。
文/小城大知 内外タイムス






