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元AKB48劇場支配人・戸賀崎智信インタビュー(第1回)「悠仁さま」も通った超名門校の落ちこぼれが、キャバクラ「年収1000万」店長を経て秋元康と出会うまで

筑波大学附属高校から、アメリカ留学の挫折を経て、水商売の世界へ。20代でキャバクラの店長として頭角を現した戸賀崎智信氏は、30歳のときに運命の打診を受ける。それは、秋元康氏とともに「秋葉原で会いに行けるアイドル」を作るというプロジェクトだった。破天荒すぎる青春時代から、伝説のグループ「AKB48」誕生までの知られざる舞台裏を明かす。

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「筑附」での違和感と、突然の無期停学

祖父がアパレルを営み、不動産業の役員を務める父と、短大を卒業して父と結婚した母のもと、東京で育った戸賀崎氏。秋篠宮家の悠仁さまが通われたことでも知られる都内有数の超名門校・筑波大学附属小学校に入学したものの、勉強に邁進(まいしん)する周囲に違和感を覚えて浮いた存在になってしまう。高校に進学してからは池袋の雀荘に入り浸り、放蕩(ほうとう)の日々を送った。

「『これって意味があるのかな』と考える癖が昔からあって。当時は『勉強していい大学に入れば、いい会社に入れて高い給料がもらえ、いい人生を歩める』と信じられていた時代でした。でも、一番勉強しているはずの大学教授がそこまでお金持ちじゃないと気づいてしまったんですね。そう思ったら『勉強にはたぶん何もないな』と自分の中で思ってしまって。そこからはもう落ちこぼれでしたね」

自分は周囲とは違うのだという自意識を抱えながらも、大学進学は無理だと悟った戸賀崎氏は、親に説明するための「大学に行かない理由」を探していた。そんなとき、同級生と暴力事件を起こしてしまう。高校3年の11月のことだった。

「卒業旅行のパンフレットを捨てた、捨てていないというつまらない話なのですが、キレて学校の廊下で殴ってしまったんです。それで無期停学になってしまいました。その時点で受験はできなくなり、親からは『自衛隊に行くか、お遍路さんをやるか、働きながら日本を縦断するか選べ』と言われて。それで日本縦断を選んだんです」

アメリカ渡航の結末と「訳あり」の学歴

北海道から沖縄まで行くと決め、北海道の酪農農家で乳搾りから始めた日本縦断だったが、高校を卒業したての中途半端な気持ちの人間を簡単に雇ってくれるわけがなかった。

「僕の中にも『卒業したらアメリカの大学に行くんだ』という気持ちがあったので、すぐ辞めるつもりでしたし、そんな人間を雇ってくれるわけがないですよね。アメリカの大学には漠然とした憧れがありました。当時、叔父がリーマン・ブラザーズのアジア部門のトップを務めていて尊敬していたんです。その叔父が『アメリカでファイナンスや財政の勉強をしたほうがいいんじゃないか』とアドバイスしてくれて、その言葉に従いました」

当時はインターネットもない時代。どうにかなるだろうという若気の至りと勢いでアメリカへ飛んだが、結局大学に入ることはできなかった。

「英語を話せないので、まずは授業を受けられるように語学学校へ通う必要がありました。そこで日本人の女の子と出会い、妊娠させてしまって帰国することになったので、大学には行っていないんです。結局残ったのは、筑附の高卒という中途半端というか意味不明(笑)な学歴だけ。誰がどう見ても『訳あり』でした」

求人誌の「1年で7桁」でつかんだキャバクラ店長の座

親からも勘当され家を追い出された戸賀崎氏は、すぐに稼がなければならなかった。そこで選んだ仕事がキャバクラのボーイだった。

「当時『フロム・エー』という求人情報誌があり、『1年で7桁狙える』といううたい文句の会社を見つけたんです。寮も完備されていて申し分ない。『プラザエンタープライズ』という、今もある大きなショーパブの会社でした。もう行くしかないと思って応募しました」

そのうたい文句はうそではなかった。戸賀崎氏は順調に出世していき、1年半で店長に昇格した。

「たぶん性に合っていたんだと思います。根拠はないけれど適当なことを言って妙に説得力を持たせたりするのが得意でした。仮説を立てて検証するのが昔から好きで、それがハマるとすごくうれしいんです。『つまりどういうことなの?』と突き詰めるのが好きなので、女の子に対しても目的を掘り下げ、一緒に目標設定を考えていくのが好きでした。それはAKB時代にも生かされていますね。当時は本当に1000万円くらいもらっていました。でも使う暇がなく、休みは年に4日ほどしかありませんでした」

ガールズバー開業から秋元康プロジェクトの始動へ

何のために仕事をしているのか分からなくなり、10年で辞めることを決意。30歳で退職した際、六本木で働いていた頃に仲良くなった芝幸太郎氏(のちにAKBの運営会社AKS立ち上げメンバーの一人となる)から「独立して一緒に仕事をしないか」と誘いを受ける。

「それで立ち上げたのが『office48』です。僕も彼も昭和48年生まれで、名前が芝(48)だから『48』。最初は自分のできることがそれしかなかったのでガールズバーをやりました。芸能事務所も手がけていましたが鳴かず飛ばずで。そんなときに芝くんが秋元康先生と仕事をする機会があり、その打ち上げのなかでAKB48プロジェクトが誕生するんです」

(第2回に続く)

《プロフィール》
戸賀崎智信(とがさき・とものぶ)1973年富山県生まれ。筑波大学付属小・中・高を経てキャバクラのボーイに。ひょんなことからAKB48プロジェクトに参加、劇場支配人になりキャバクラで培った手腕を発揮する。現在は、ロケ弁・仕出し弁当宅配の「お江戸弁当」を経営している。

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