#55 世界政治における「法の支配」と「力の支配」のせめぎ合い 五味俊樹(大東文化大学名誉教授)

世界政治における「法の支配」と「力の支配」のせめぎ合い
 2026年8月18日、米国のトランプ政権は、国際刑事裁判所(ICC)の赤根智子所長らを経済制裁の対象にすると発表した。それに先立つ7月13日、ルビオ国務長官は『ウォールストリート・ジャーナル』紙への寄稿の中で「我々が持つすべての手段を用いて、国際刑事裁判所(ICC)を解体する」と主張した。「制裁」を科する根拠として、ICCは悪意をもって権限を濫用し、任務の範囲を超えており、ICCの管轄権に同意しない政府(この場合、米国)の職員への捜査、逮捕、拘束、起訴の取り組みに赤根氏らが直接関与してきた点を挙げている。それは同時に、米国の主権に対する許容できない脅威であり、その除去のためにICCを「解体」せねばならぬというのである。
 これに対し、ICC側は「国際法秩序が危機にさらされる」と強い懸念を表明、国連のグテレス事務総長もICCが国際刑事司法の不可欠な柱であることを訴え、同様の懸念を表した。また赤根所長自身もオンライン会見で「ICCは決して負けない」として、自らの信念を貫く強い姿勢を示した。さらに欧州の首脳やEUもトランプ政権による制裁を遺憾とし、ICCへの全面的支持・支援を表明した。
 一方、高市首相や外務省はトランプ氏の「恫喝」や日米関係の悪化を恐れてか、「大変残念だ(very unfortunate)」という控えめなコメントを出すにとどめた。この日本政府の対応について、「人権外交を超党派で考える議員連盟」、多くのマス・メディアやSNSなどからは、その「弱腰振り」を批判し、制裁への抗議と即時撤回を要求すべき旨の声明・論調・訴えが噴出した。日本外交の主要な柱は国際社会における「法の支配」の推進・徹底である。高市首相は今年1月に「法の番人」である赤根氏と会見した際、「政府としてICCと赤根所長を力強く支援していく」と約束した。そうだとすれば、トランプ政権による理不尽極まりない制裁に屈することなく、赤根氏やICCを守るのは日本政府の責務であろう。
 しかしながら、責務遂行にあたっての高市首相には高く、厚い壁が立ちはだかっている。ICCは、戦争犯罪、人道に対する罪、ジェノサイド(集団殺害)など、国際社会にとって最も深刻な重大犯罪を対象に、<国>ではなく<個人>を裁く国際刑事司法機関として2002年に設立された。日本は2007年7月に加盟し、最大の分担金拠出国であり、赤根所長を筆頭に人的にも多大な貢献を果たしてきている。
 ところが、米国、ロシア、中国、イスラエルなどは自国民の訴追を恐れ、加盟していない。その恐れは現実のものとなり、2023年3月、ロシアのプーチン大統領らにはウクライナ占領地から子供を連れ去った疑いで、2024年11月、イスラエルのネタニヤフ首相らには戦争犯罪や人道に対する罪の疑いで、それぞれ逮捕状が発行されている。同様の事態を嫌い、国際法を不要と公言するトランプ大統領は2025年2月、ICC関係者を制裁する大統領令に署名、実行に移している。
 ICCは国際社会において主権国家の上に立つ、司法機関ではない。また、逮捕状を執行する警察や軍隊も備わっていない。したがって、米国のような未加盟の軍事大国がICCの裁定に応じない場合、法治国家内と同様の「法の支配」は期待できない。こうしたICCの制度的限界と「力の支配」が跋扈する近年の国際情勢を踏まえると、日本政府が声高に正論を吐き、トランプ氏を過度に刺激することは日米同盟関係の紐帯を揺るがす虞があろう。むしろ、ICC加盟国の結束をはかり、地道な方法にて制裁の影響を最小限に食い止め、赤根氏やICCを支えるべきである。ここは、臥薪嘗胆の時である。

五味俊樹(大東文化大学名誉教授)

ごみ・としき 1948年生まれ。1979年上智大学大学院外国語学研究科国際関係論専攻博士課程退学。玉川大学助教授、米国ハーバード大学ライシャワー研究所客員研究員、大東文化大学法学部教授を経て、東京国際大学特任教授。2026年3月退職。主な著書に『増補 国際関係のコモン・センス』『現代アメリカ外交の転換過程』『新安全保障論の構図』『9・11以後のアメリカと世界』『アメリカがつくる国際秩序』等がある。

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