「無罪請負人」弘中惇一郎弁護士(第3回)「本当は『無罪請負人』という肩書は気に入っていないんです」その真相と、無罪を勝ち取るための3つの絶対条件
「無罪請負人」「カミソリ弘中」。そう呼ばれる弘中惇一郎弁護士はこれまで、ロス疑惑の三浦和義、陸山会事件の元国会議員・小沢一郎、郵便不正事件の村木厚子など、数々の依頼人を無罪に導いてきた。しかし、本人はこの「無罪請負人」という呼び名をあまり気に入っていないという。その理由を、幼少期からのエピソードとともに紐解く。
【あの時、何が】弘中惇一郎弁護士インタビュー(第2回)検察は抗告禁止以外にももっとやるべきことはある、村木事件冤罪の真相からロス疑惑三浦和義死亡の推理までから続く
成城学園でのびのびと遊んだ少年時代
――幼少期はどのような少年だったのですか。
弘中 どちらかと言えば、ぼーっとした子どもでしたね(笑)。特に小学校の低学年の頃は、いつも口をポカンと開けていた記憶があります。それを治すためとしてにアデノイド(扁桃肥大)の摘出手術まで受けました。通っていた学校が成城学園で、非常に自由な校風だったこともあり、勉強は二の次で、とにかく遊んでばかりいる少年でした。
――そこから東京大学法学部に進学されたというのは驚きです。
弘中 父親の転勤に伴って、小学校6年の終わり頃に広島に移ることとなり、そこで修道中学・高校に入学することになりました。その結果、ようやく人並みに勉強するようになりました。
――東大の合格発表の掲示板で、後に政治家となる平沢勝栄さんと名前が並んでいたというエピソードを聞きました。
弘中 確か、平沢さんとの間にちょうどもう一人、別の受験生の名前を挟んでいたと思います。「弘中、平林、平沢」といった順番だったのではないでしょうか。平沢さんは今でも会うたびにその話をしてくれますよ。大学時代の同窓生です。

学生運動の混沌から選んだ「弁護士」の道
――法学部に進まれた後、いつ頃から弁護士を目指すようになったのですか。
弘中 幼い頃から人一倍正義感が強かった、というわけでは決してありません。きっかけは偶然のようなものです。大学在学中に司法試験と国家公務員上級試験の両方を受験したところ、幸いにも両方とも合格しました。最初は「公務員になろうか」と考えていたのです。しかし、当時は今と違って非常に政治的な時代で、学生運動が激化するなど世の中全体が激しく混乱していました。そんな混沌(こんとん)とした時代背景の中で、友人から「これからは弁護士という生き方がいいんじゃないか」と勧められたこともあり、法曹の道を選びました。
――司法修習を終えられた後のキャリアは。
弘中 東京・銀座4丁目の三越の裏手にあった、堂野達也弁護士の事務所で修業を始めました。堂野先生は後に日弁連(日本弁護士連合会)の会長も務められたような、弁護士界の重鎮でした。
「三十にして立つ」巨大公害・薬害訴訟への挑戦
弘中 その下で5年ほど過ごしました。そして、30歳になった時に独立しました。「三十にして立つという言葉通り、男たるもの30歳になったら自分の足で一本立ちしなければならない、という思いがあったのです。

――独立後は、現在の「辣腕(らつわん)刑事弁護士」というイメージとは少し異なる、いわゆる「人権派」として数々の集団訴訟に関わられますね。
弘中 堂野先生の事務所にいた4年目あたりから、大規模な薬害事件に関わるようになりました。具体的には「クロマイ薬害訴訟」「クロロキン薬害訴訟」、そして「六価クロム公害訴訟」といった、いずれも被害者が多数にのぼる巨大な集団訴訟です。1975年(昭和50年)の12月に、これら3つの重大事件の訴状をほぼ同時に提出したため、当時は寝る間もないほど多忙を極めました。
弘中 その後、世間から「無罪請負人」と呼ばれるきっかけとなる、三浦和義さんの「ロス疑惑事件」を引き受けることになります。一審の有罪を覆して逆転無罪を勝ち取ったのが、私が52歳の時です。さらにその後、帝京大学の薬害エイズ事件で起訴された安倍英(たけし)元副学長の事件でも無罪を勝ち取りました。こうした実績が重なり、いつしかメディアから「無罪請負人」という言葉で呼ばれるようになったのですが、私自身はこの肩書があまり好きではないのです。
私が「無罪請負人」の肩書を嫌う理由
――「無罪請負人」という肩書が気に入っていないとおっしゃいましたが、それはなぜですか。
弘中 刑事裁判において、無罪判決を勝ち取るということは、そう簡単に実現できるものではないからです。私は、無罪を勝ち取るためには「3つの条件」が必要だと考えています。

第1に、「事件の筋(すじ)が良いこと」。つまり、客観的に見て本当に本人が無実であり、かつそれが法的に立証可能なアプローチを残していること。第2に、「弁護士に一定の能力があり、妥協せずに粘り強く頑張れること」。そして第3に、これが最も重要なのですが、「裁判官がまともであること」です。過去に無罪を獲得できた事件を振り返ると、結果的に裁判官が極めて優秀で、気骨のある立派な方だったというケースがほとんどです。ロス疑惑の三浦さんだって、一審の裁判では無期懲役の判決を下されているのですから。
「事なかれ主義」の司法構造とほんの一握りの裁判官
――それは裏を返せば、日本の裁判所には問題のある裁判官が多いということでしょうか。
弘中 人間性の問題というよりも、現在の日本の司法構造の問題です。日本の刑事裁判における有罪率は「99.9%」を超えています。1000件のうち、無罪判決が出るのはわずか2件か3件という世界です。このような環境において、「無罪判決を書く」というのは、裁判官にとって凄まじい勇気とエネルギーを要することなのです。
無罪を出せば、最高裁判所や組織の上層部から「本当に大丈夫か」「検察の捜査を否定するのか」と白い目で見られるリスクを伴います。検察側の主張通りに「有罪」と言い渡していれば、組織内で波風を立てずに平穏に出世していける。その誘惑をはねのけてまで、真実を見極めようとする根性と気概を持った裁判官は、決して多くはありません。
刑事弁護に不可欠なふたつの「ソウゾウリョク」
弘中 「事なかれ主義の裁判官しかいない」とまでは言いませんが、弁護士たちの間ではよく「東京高裁の中でも、あの裁判長とあの裁判長なら信頼できるが、あとの裁判官は全く期待できない」といった会話が日常的に交わされています。つまり、「この裁判長なら、予断を持たずにこちらの主張を聴いてくれるかもしれない」と思えるような、信頼に足る裁判官はほんの一握りしかいないのが現状です。
――先生の事務所には素晴らしい絵画がたくさん飾られていますが、「芸術」と「弁護の仕事」に共通点はありますか。
弘中 弁護士が仕事をする上で最も大切にすべきなのは、2つの「ソウゾウリョク」――すなわち、「想像力(イマジネーション)」と「創造力(クリエイション)」だと考えています。真っ白なキャンバスに絵を描くという行為は、頭の中で一つの世界を「想像」し、それを技術によって形へと「創造」していくプロセスです。この一連の流れは、刑事弁護の仕事とどこか共通しています。
例えば、刑事事件が起きると、検察側が自分たちに都合の良い証拠だけを集めてストーリーを組み立て、それを開示してきます。検察が作った調書だけを眺めて、「ふむ、こういう事件なのか」と納得しているだけでは、弁護士としての思考はそれ以上発展しませんし、絶対に検察の壁を崩せません。そこで必要になるのが「想像力」です。「検察の言っているストーリーは、本当に正しいのだろうか?」「別の可能性はないか?」と疑い、自分で実際に事件現場へ足を運んでみる。

現場を歩き回りながら思考を巡らせていると、「待てよ、あそこからではこの景色は見えないはずだ」「検察の説明は不自然だ」と、何かしら違和感や新しい視点(気付き)が生まれてくるものです。一見事件とは無関係に思える人物であっても、「この人に話を聴いてみれば、何か新しい事実が見つかるかもしれない」と想像し、実際に会って対話を重ねてみる。このように、検察から与えられた既成の情報に頼るのではなく、自分の頭で想像し、自らの足で検察の想定外にある新しい情報を集めて「無罪のストーリー」を組み立てていく(創造する)ことこそが肝要だと思います。
ロス疑惑の時も、実際にロサンゼルスへ飛び、現地で自ら車を運転して現場周辺をくまなく走り回りました。そうして肌で現地の空気や地理的感覚を味わうことで、書類を読んでいるだけでは決して得られない「何か」を感じ取ることができました。そうした泥臭い想像力と創造力の積み重ねこそが、結果として逆転無罪へとつながったのだと思っています。

《プロフィール》
弘中惇一郎(ひろなか・じゅんいちろう)1945年山口県生まれ。東京大学法学部卒業後、1970年弁護士登録。クロロキン、クロマイ各薬害事件、ロス疑惑事件、薬害エイズ事件、郵便不正事件、陸山会事件など数々の事件を無罪に導く。通称「無罪請負人」。カルロス・ゴーン氏の弁護人もつとめた。





