国際興業創業者一族 小佐野匠インタビュー(第1回)一代で帝国を築き上げた創業者小佐野賢治との記憶 ロッキード事件係争中に帝国ホテル会長に就いた伯父
バス事業を主軸にホテル・観光や不動産など、多角的な事業を展開する国際興業。淵源は1940年にまでさかのぼり、創業者は“政財界のドン”とも田中角栄の“刎頸(ふんけい)の友”とも称された小佐野賢治氏だ。非上場のため大きく報じられる機会は少ないが、日本屈指の歴史ある名門企業が、1人も子どものいなかった賢治氏の亡き後、国際興業の支配権をめぐりこれまで骨肉の争いを繰り広げてきた。今回、賢治氏の実弟の孫にあたる小佐野匠氏がインタビューに応じ、自身の半生と小佐野一族の内幕を赤裸々に語った。
匠氏からみると賢治氏は戸籍上の伯父(おじ)にあたる。匠氏の親の離婚後、母方の祖父母に養子縁組されたため、実際のところ賢治氏は祖父の兄で、大伯父となる存在だ。
「私は小さい頃から賢治伯父と呼んでいました。記憶が残っているのが3歳くらいからで、当時、世田谷の上野毛に住んでいて、目の前が賢治伯父の家なんですよね。その家は6000坪の敷地で、国際興業では迎賓館と呼ばれていました。賢治伯父は私が5歳の時、すい臓がんで亡くなっています。賢治伯父は4人兄弟の長男で、4番目の末っ子が政邦。私は政邦の孫となります。4人兄弟のうち、真ん中の2人はすでに亡くなっていたので、生きていたのが賢治伯父と政邦だけでした。政邦は国際興業の社長を務め、それぞれ別の車ではありましたが、よく2人同じようなタイミングで上野毛に帰って来て、祖父が私を連れて迎賓館の賢治伯父の所へ向かい、皆で一緒に過ごしたのを覚えています」
賢治氏はバス事業を土台にして国際興業を一代で繫栄させる。日本国内の有名ホテルを複数買収したほか、ハワイの観光資源にいち早く注目する。ワイキキの名門ホテルを数多く手に入れる。学はなくとも、時代の流れと人との出会いを武器になり上がっていった。
「賢治伯父を含めて4人兄弟のうち、私の祖父の政邦が一番下で、昭和3年生まれでした。賢治伯父と政邦は11歳離れていたんですよね。政邦は兄弟の中で唯一早稲田大学を卒業していました。他の兄弟はたぶん小学校しか出ていないんですよ。賢治伯父が成功するまでは非常に貧しかったそうで、祖父は『水呑(みずのみ)百姓』って言っていましたね」
田中角栄と昵懇の仲だった賢治氏。ロッキード事件では実刑判決に

「賢治伯父は小学校では非常に良い成績だったと聞きました。でも、お金がないから進学ができない。それで東京に出てきて、一旗揚げて、成功して。だからもう徴兵検査の時には運転手付きの車で乗り付けて行ったみたいなんですよね。
兵役で中国戦線に行って、いろいろと出会いもあって、そこと帰国してからでお金を作ったみたいなんですよね。真相はよく分からないですが。戦後、運が良かったのは昭和21年の新円切り替えと財産税だったみたいです。その時に、それまでのお金持ちだった人たちが、一気に現金がなくなってしまったそうで。
戦後の労働争議が厳しくなってきた時、公職追放を受けるなどしていた東急グループの五島慶太さんがお金に困っていたそうなんです。五島さんから、『労働争議が激しくなってきて賞与を払うのに現金が必要だ』って相談されたようで。それで賢治伯父はありったけの現金で五島さんの持っている6000坪の土地を戦後間もない頃、90万円で買ったらしいんですよ。結果、新円切り替えの被害はほとんど免れることができたみたいなんですよね。そこで賢治伯父は一気に大金持ちになったようです」
国際興業の創設者、賢治氏には“政商”という異名があったと同時に“政財界のドン”とも囁(ささや)かれた。また、田中角栄の“刎頸(ふんけい)の友”とも言われ、ロッキード事件において国会で聴取された。匠氏は賢治氏が実刑判決を受けた1981年に生まれた。
「田中角栄総理は、私の記憶が合っていれば昭和60年(1985年)、だから賢治伯父が亡くなる1年前に脳梗塞で倒れられているんですよね。だから、直接はお会いした記憶は正直ないんです。ただ、小佐野家の中での会話ではもちろん、すごく出てくる方でした。実際、祖父(政邦氏)も田中真紀子さんとは懇意にその後していましたよね。その記憶はとても残っていますね」
同学年に櫻井翔、衆議院議員の中曽根康隆

賢治氏はロッキード事件の係争中の1985年、帝国ホテルの会長職に就任している。今ならコンプライアンスの観点から考えられないことだろう。どういった経緯で会長になったのだろうか。
「やっぱり、彼も小卒からたたき上げで成り上がってきた人なので、日本を象徴するホテルだからこそ、所有欲、名誉欲というか、そこを満たしたかったんだと思うんです。賢治伯父が亡くなった後、私の祖父の政邦が帝国ホテルの会長のポジションに就いたんです。私の記憶が合っていれば少なくとも2011年までは。帝国ホテルの株式の39.数パーセント、約40%持っていた圧倒的な筆頭株主でしたから、私も(帝国ホテルに)行けば、オーナーファミリー扱いでしたね」
国際興業の創設者一族に生まれた匠氏。小学校は慶應義塾幼稚舎に進む。アイドルグループの元嵐の櫻井翔、衆議院議員の中曽根康隆氏らをはじめ、のちの日本のトップに君臨する人物が同学年に多数在籍していた。現在も同窓生との交流は続いているという。
一定の基準を上回った良家の子どもしか存在しないので、自分を特別視しないで過ごせる。一方で「世間知らず」のデメリットもあったと振り返る。
「みんな幼ななじみですから今でも会いますよ。みんな今、それなりにうまく行っている人間同士だったら別に、気兼ねなく昔の話をするってことでしょうし。逆にうまく行っていない人はそういった集まりには出てこないですから。はっきり言って、この年になると。
小佐野家の一族で、確か慶應幼稚舎入った人って私が初めてだと思います。皆さん、受けてもなかなか入れなかったみたいですね。
本当に自分で気を付けないと世間知らずになってしまう場所だと思いますよ。それこそ鳩山由紀夫さんじゃないけれど、あの人は総理大臣になる前は、日本の平均年収は1000万円だとか言って問題になっていましたよね。まあ、慶應幼稚舎に関していえば、恐らく親の平均年収は1000万円どころか実質4000~5000万円いっている世界だと思うんですよね」
いずれ国際興業の社長になり、自ずと莫大な富もついてくる
「そうすると必然的に世の中の一般的な人たちがどういった暮らしをしているかは、どうしてもテレビの向こう側の世界の話になってしまう。だから、幼稚舎でも親が送り迎えをするとか、運転手が送り迎えするのとかを結構取り締まっていて。『ちゃんと電車で来なさい。バスで来なさい』とか。大事な取り組みだと思いますけどね。また、良家の子でも、『上には上がいる』環境でしたから、天狗にならないで済むというのは、意味ありますよね。
私の場合、当時、自分でも薄々気付いていたんですけど、3年生までは元警察官のボディーガードがついていたんですよ。祖父がつけていたみたいで。実際1回、襲われかけたこともあったし、当時、誘拐が流行っていたんですよね。祖父も車を乗っ取りかけられて、誘拐されそうになったりだとか、中学校の時にはうちにダンプが突っ込んできたりとか、いろいろありました」
小学校の頃から「自分は何もしなくても大学さえ卒業すれば、いずれ国際興業の社長になり、自ずと莫大な富もついてくる」というマインドセットを持ちながら、中学校はいわゆる“エスカレーター”でそのまま慶應義塾普通部に進む。同時に難関をくぐりぬけてきた一般受験に合格した生徒が多数入学してきた。
「中学の頃は勉強はできなかったですね。中学受験で合格した人がたくさん入ってきてね。後にうちの息子なんかは慶應幼稚舎を落とされて、SAPIX(サピックス)で猛勉強して中学受験で慶應の湘南藤沢に入っているから、逆に見ていて分かるんですけれど、中学受験で入った人は勉強できますよ。でもね、幼稚舎から行くと、正直勉強ができなくても何も言われない学校なんです。
私は幼稚舎時代、試験っていうのは、事前に勉強をして点数を取るためのものじゃなくて、単にその瞬間のまっさらな実力を測るものだと思い込んでいた。中学校の最初の試験とか何の勉強もしないで臨んだら、数学で学年最低点とか取って『これは大変だ』ってことになって。慶應普通部って中1から、学年で成績の下から5人は留年させるんですよ。だからまずいなって思って、そこからはだんだんと勉強するようになりましたよ。でも、実際に成績が良くなるのは高校2年ぐらいからなんですよね」
国際興業創業者一族 小佐野匠インタビュー(第2回)祖父政邦の死去と現会長正隆との対立 竹中平蔵の施策で国際興業から小佐野家追放の危機に に続く。17日18時公開。

《プロフィール》
小佐野匠(おさの・しょう)1981年生まれ。東京都出身。国際興業株式会社の創設者、小佐野賢治氏の実弟で、帝国ホテル会長や国際興業社長を務めた政邦氏の孫。賢治氏は戸籍上は伯父にあたる。1994年慶應義塾幼稚舎卒業、1997年慶應義塾普通部卒業、2000年慶應義塾湘南藤沢高等部卒業、2004年慶應義塾大学経済学部経済学科卒業、2006年3月早稲田大学大学院アジア太平洋研究科国際経営学専攻MBAコース修了。2006年株式会社レコフ入社。2013年国際興業株式会社経営企画部担当部長、2014年国際興業エンタープライズ株式会社へ業務部長として出向。2019年かいじキャピタル株式会社、2023年にかいじ人材株式会社を設立、代表取締役を務める。






