• 全国
  • 政治家・東国原英夫インタビュー(前編)「ババア死ね」「貧乏人」「田舎もん」観客も笑わなかった若きビートたけしの毒舌 一番弟子が明かす“師匠との日々”
  • HOME
  • 全国
  • 政治家・東国原英夫インタビュー(前編)「ババア死ね」「貧乏人」「田舎もん」観客も笑わなかった若きビートたけしの毒舌 一番弟子が明かす“師匠との日々”

政治家・東国原英夫インタビュー(前編)「ババア死ね」「貧乏人」「田舎もん」観客も笑わなかった若きビートたけしの毒舌 一番弟子が明かす“師匠との日々”

「政治家とお笑い芸人になる」。小学校6年生の頃、そう夢見ていた東国原英夫。その後、ビートたけしの“一番弟子”となり、お笑いの世界で活躍。やがて政治家へ転身し、宮崎県知事を務めた。

今回のインタビューでは、若き日のビートたけしとの衝撃的な出会いから、今では考えられない毒舌や無茶ぶりに満ちた“一番弟子”時代、「淫行」「逮捕」と報じられた過去や週刊文春との裁判、SNS時代の報道のあり方まで、幅広く語ってもらった。

「そのまんま東」の名にかけて――、と言うと少し大げさだが、今回は東国原氏の言葉をできるだけ飾らず、“そのまんま”掲載する。笑いあり、波乱あり、そして報道への問題提起あり。東国原英夫の言葉に耳を傾けてほしい。

「秋葉原殺傷事件」加藤元死刑囚の友人・大友秀逸さんインタビュー(前編)「なぜ電話一本くれなかったのか」加藤智大との出会いと過酷な現場で見せた「素顔」

どちらか一方ではなく「お笑い芸人も、政治家も」 小6で描いた2つの夢

――東国原さんがお笑い芸人になろうと思った、具体的なきっかけはあったのですか?

東国原 小学校6年生の時の将来の夢が「政治家」と「お笑い芸人」でした。

なぜそう思ったかというと、昭和の激動の時代ですね、高度経済成長期。あの時は政治には非常にダイナミズムがあった。賛否は別にして。高度経済成長期ですから成長率は数パーセントずつ上がっていくわけですね。戦後の復興期だったので政治が躍動していた。

親父の仕事の関係で政治家の方が身近にいたんですね。宮崎県都城市っていう当時人口10万ぐらいの小都市だったんですけども、そこの政治家の方たち、市議会議員とか市長さんとか、そういった方たちが身近にいたものですからそれを肌で感じていたというのが一点。

お笑い芸人というのは、僕の親父が仕事の関係でサーカスとか相撲の巡業等々を呼んでくる。呼び合いが専門じゃなかったんですが、専門は製材業です。林業です。そういう街にエンターテインメントを持ってくる方がいらっしゃらなかったのかな。うちの親父がその担当してて、そこにサーカスが来たり相撲が来たり。エンターテインメントがいかに人々を明るくするかというのを肌で感じました。目の当たりにしました。

各家庭に1台ずつテレビが導入される時代で、それまで僕ら小さい頃というのは動く映像っていうのは映画でしかなかったんですね。スクリーンでしかなかったんですが、各家庭に1台箱が届いてそこに映像が出るわけですよ。スマホが出た以上のカルチャーショックでした。そこにニュースがあったり、バラエティーがあったり、ドラマがあったり、スポーツがあったり、(1964年の)東京オリンピックをカラーで見ようと、テレビで見ようというあの成長期ですよね。スポーツを見ました。そこにバラエティーがあった。バラエティーで皆さんが笑顔になると「なんて素敵な、空間なんだろう」と。

笑いというのは最近では「“NK細胞(ナチュラルキラー細胞)”を元気にする」というようなデータもあるように、非常に体の活性化にも役立つ。という医学的なことは後で知ったんですけど、当時はやっぱり皆さんが笑顔になると、元気になるんですね。明るくなるんですよ。雰囲気が明るくなるんですね。この笑いがエネルギーというか、効果っていうのはすごいなと思いまして。

どっちかじゃないです。お笑い芸人か、政治家じゃないです。「お笑い芸人と政治家」両方なりたかったというのが小学校6年の時の私の夢でした。それを実現するために今まで人生を歩んできたと言っても過言ではないです。

就職活動は「全くしてないです」  2つの夢を見る少年、ツービートと出会う

――小学生で2つの夢を持つというのも珍しいですし、それが政治家とお笑い芸人。そんな同級生はいなかったんじゃないですか?

東国原 そういう発想をする人はいません。当時、男子に一番人気があった仕事というのが圧倒的に乗り物の運転手さんだったんですよ。パイロットとか。東京・大阪間の新幹線が開通したから新幹線の運転手さんとか、タクシーの運転手さん、あるいは電車の運転手さんとか。そういう乗り物の運転手さんが圧倒的に多かった。その次がプロ野球選手とか。政治家というのも僕らが小さい頃はベスト10に入っているんです。今は100位にも入っていません(笑)。

当時言われたのが、「学校で成績が優秀な生徒は、末は博士か大臣か」と言われていた。そういうこともあって政治家というのはまぁまぁ子どもたちには憧れられる仕事であったことは、間違いないですね。

まあでも、それとお笑い芸人の両方なりたいという発想を持っている人間はおそらく、近所、学校等々では全くいません。学校の先生にびっくりされて「東国原くん、政治家とお笑い芸人、両方なりたいのか?」と。「両方なりたいんです!」。

で、「両方の仕事が持っている“共通点”は何ですか?」と聞かれたんです。その時私が答えたのが、「両方とも人々を幸せにする仕事です」と答えました。今もそれは記録に残ってます。

――共通点が「人を幸せにする」ということだった。

東国原 そうですね。共通点だということを小学校6年12歳の英夫少年は感じ取ってたみたいです。

――その少年が成長していって、実際にお笑い芸人になりました。

東国原 ずっと政治家とお笑い芸人、両方を視野に入れてました。東京の大学に行って卒業する間際ぐらいから(将来を)考えるわけですよ。他の仕事は選択肢になかったです。

――就職活動などはしなかったのですか?

東国原 全くしてないです。大学を卒業する1980年前後は、“漫才ブーム”が来る時代です。卒業する1、2年前に「田園調布に家が建つ」の星セント・ルイスさんのワンマンショーを見に行ったんですよ。浅草の演芸場に。星セント・ルイスさんのお客さんが、350人くらいかな。そこで前座で出てきたのが、たけしさんたちだったんです。ツービート。

前座のツービートに客はクスリともせず…東国原英夫だけが感じた「この人たちは天下を取る」

――ツービートが前座だったんですか?

東国原 前座。そこで衝撃の出会いでした。

1980年(開塾)に松下政経塾が第一期生を募集するんです。松下政経塾に行くか、ビートたけしの弟子に入るか。この二択だったんです。あの時、漫才ブームが関西から吹いてきました。あの突風の方がすごかったですね。

で、神様が「お笑いに行け」と。ましてやツービートという天才を見てるわけですよ。まだツービートが浮上しない頃ですよ。まだ水面下にいて、まだ世間一般にツービートが面白いというのは認知されていなかったです。

このツービートは多分、天下を取るだろうなと僕は思ってた。松下政経塾も大きな存在だったんですが、さあどっちか?となった時は、やっぱりお笑いですよね。で、一番弟子。たけしさんのところに直接ノックして、弟子にしていただきました。

――前座という立場にもかかわらず衝撃を受けるというのは、意外です。何が一番衝撃的だったのでしょうか?

東国原 あの毒舌。クスリとも笑わないんですよお客さんが。だってセント・ルイスのお客さんだから。その前提で出てきたこのチンケな2人は何なんだ、と。早口で毒舌で「ババア死ね」とか「貧乏人」とか「田舎もん」とか、今だったら考えられないですからね(笑)。「寝る前に、ちゃんと絞めよう、親の首」とか、もう信じられないでしょ。その時に出た標語が「赤信号、みんなで渡れば、怖くない」だったんですよ。

――そこで生まれたんですかね?(笑)

東国原 初めて聞いたんです僕は。で、「コマネチ、コマネチ」も初めて見ました。この人たちはやっぱり天才なんだ。もう45年前、もっと前かな。革新的だったんですよ。

――新しいですよね。だからお客さんも笑わなかった。

東国原 ついていけないんですよ。あと、セント・ルイスのお客さんなので、はなから受け付けない。早く終わらないかなと思ってるんですよ、みんな。でも僕だけが刺さった。

そこから「笑ってる場合ですよ!」(フジテレビ系)という番組が始まるんですけど、そこで5週連続チャンピオンになったので、そのまま師匠の楽屋に忍び込んだ。(ドアを)コンコンコンコンって。「すみません!東国原と申します」って。

オスカル・メスカルというコンビで漫才してたんですね。当時は面白かったですよ(笑)。「オスカル・メスカルです!弟子にしてください!」というのが、新宿アルタの8階の楽屋です。

――その時は快く受け入れてくれたのでしょうか?

東国原 師匠も(モノマネしながら)「えーーーーー!?」って(笑)。得体の知らない人間がいきなり楽屋に入ってくるわけですから。「刺される」と思ったらしいです。師匠はいろんなところに敵が多かったので。批判も多かったので刺されると思ったんですよ。

だから僕は真剣だった。目が血走ってるわけですよ、憧れの師匠、憧れのツービート、たけしさんがいて。隣は(漫才コンビの)B&Bさんの楽屋だったんですけどね。B&Bさんの楽屋には、ぬいぐるみだとか手紙だとか、折り鶴とか、いろんなプレゼントが満杯なんですよ。でも師匠の楽屋はガラーンとしているんですね。何もないんですよ。「俺のところにはカミソリばっかり届くんだ」というような当時のギャグ。師匠がイッセイミヤケを着ていたら、イッセイミヤケのファンの方から「着ないでほしい」というクレームが来るんですね。それで、「バカヤロー、着てやるよ!この野郎」って。二重に着たりなんかしてた。

ツービートに弟子が来るなんて考えられないんですよ。普通は紳助・竜介さん、ザ・ぼんちさんとか、漫才ブームを支えたやすきよさん(横山やすし・西川きよし)がトップだったんですけど。B&Bさんたちにはお弟子さんがいたんだけど、たけしさんのところにはお弟子さんがいなかったんです。

――まさに、一番弟子ですね(笑)

東国原 一番弟子なんですよ。師匠は「俺に弟子入りするの?」という雰囲気でした。

で、「アンちゃん、どこから来たんだい?」って言われて、僕が出身地を聞かれたと思った。

どこから来たんだ?っていうのは、「この楽屋にどこから入ってきたんだ?」っていう意味だったらしい。でも僕は出身地を聞かれたと思って、「宮崎です」って言ったら滑舌が悪かったのか、声が小さかったのか、「ああ、七夕で有名だな」って言われたんですよ。七夕ってのは仙台なんですよ。宮城県なんですね。宮崎と宮城はよく間違われてるんです。

宮崎県のあるあるで、宮崎県出身者が東京・大阪に行って「どこの出身ですか?」って聞かれて「宮崎県」って言うと、誰も知らない。宮城県なら知っているというのは県民はだいたい経験しています。

僕もその時に師匠に「それは宮城です」って言い返せなかった。その時に、「いつか宮崎県を、誰も知らない人がいないぐらいに有名にしてやろう」というモチベーションが湧くわけですよ。

――宮崎県知事への原点のようなものがあったと?

東国原 そういうことです。

それで師匠に“一番弟子”という形でついた。ちょうど師匠も漫才ブームで仕事がだんだん忙しくなりつつあってて、「誰かいないか?」って付き人と運転手を探してた時だったらしくて、渡りに船で、私がいいタイミングで入りました。

初めて運転したのは“真っ赤なポルシェ” 一番弟子として“ネタ拾い”の日々

――弟子になってからは、どのような日々を送られたのでしょうか?

東国原 たけし軍団がまだできてないですからね、僕一人ですから。

菊池さんというマネージャーさんがいらっしゃって、たけしさんと僕と三人で動くんです。マネージャーさんは仕事だけですが、僕は内弟子なので私生活で全部付き人をするわけです。ですから、仕事が終わったらだいたい飲みに行きます。

朝ぐらいまで飲んで、一回家に帰って数時間仮眠をとってすぐ仕事。もう本当に殺人的なスケジュールですから、漫才ブームの時。ずっとついてましたね。毎日仕事の時には、当時はタバコを吸っていたので、お茶とタバコをいつもカバンに入れて、スタジオを1日に2、3箇所はしごするんです。その間の移動は運転ということで、ポルシェを運転しました。

私は、大学時代お金がなくて車を買えなかった。友だちも車を持っていなかった。大学4年間1回も運転したことがなかった。その人間が初めて師匠の弟子になって運転するのが、新車の真っ赤なポルシェでした。これはもうありえない話です。もう一回言いますね。初めて運転する車がポルシェなんですよ。外車、左ハンドル。スポーツタイプ、新車。ぶつけたら大変。

師匠は後ろに乗ってるわけですよ。2シーターだけど、あれ4人乗りなんですね。スポーツタイプでも。後ろに師匠が乗ってる。私は左ハンドルで、運転したこともない都内の交通量で。それでワイパーと方向指示器のスイッチが日本車とは逆なんですよ。ですから僕は何回も曲がるときにワイパーを作動させてしまった。たけしさんから「お前、雨なんか降ってねえんだよ、バカヤロー」みたいな。

あと、左ハンドルは右側に空間があって中央線から離れているせいか、自分の運転ポジションがどんどん中央に寄っていく。で、車体半分が中央線をオーバーしたりするんですよ。師匠が「バカ野郎この野郎、すれすれじゃないか!俺を殺す気か、この野郎!」って(笑)。そういうのが毎日。

師匠はこう(首を小刻みに左に傾ける動作)されるんですわ。後ろに乗ってて私もバックミラーで見るじゃないですか。この動きが何の合図か分からなかったんですよ。で、聞けないんですよ。「何の合図なんですか?」ってうちは聞いちゃダメなんですよ。自分で判断しなさいという話なので。私はそれを“左に曲がれ”の合図だと思ったんですよ。行き先は真っ直ぐだったんですけど、あんまりするので、次の交差点を曲がったんですよ。

そしたら普通は「バカ野郎、なんで曲がるんだよ。行き先まっすぐだろ」ってお叱りが入るんですが、師匠は遊ぶんですよね。ここが天才なんですよ。いきなり曲がったら、「こいつ、もしかしたら俺の動きを勘違いして左に曲がったのか。もう一回やったらどうするんだろう?」と実験するんですよ。

左折して、もう一回曲がったら、またこうされて、また左に曲がるんですね。出発地点に戻ってるんですよ。またこうされて、また曲がって、また曲がって、一周するんですよ。そこで「バカ野郎、この野郎。お前、これ“癖”なんだ、この野郎。お前バカにしてんのか」と(笑)。

そういうのが、オールナイトニッポンのネタになる。オールナイトニッポンが始まったばかりの頃です。「東っていう弟子が来やがってよー」みたいな。ネタ拾いの毎日でした。

「オレたちひょうきん族」という番組をやってて、河田町の古いスタジオだったんですけど楽屋も古かったんですね。あそこに個室があるんですけど、そこで休憩時間にお休みになられたりするんですね。僕は外で待ってるんですけど、師匠が「おい、東!」って呼ばれて、「なんでしょうか?」って伺ったら、「スポンジ買ってきてくれないか?」と。

師匠は滑舌が悪いんですよ。普段はボソボソっとしゃべるんですね。正解は「“スポニチ”買ってきてくれないか?」だったんですよ。正解はスポニチなんです、スポーツニッポン。僕は“スポンジ”に聞こえたんですね。

弟子が師匠に「何とおっしゃいましたか?」と聞き返すのはタブーです。言われたことには「はい」なんです。それがあの時代です。だから、「はい!分かりました!」と。スポンジを楽屋で何に使うのかな?掃除でもするのかな?ネタに使うのかな?分からないけどスーパーへ走ってスポンジを3つ買ってくるわけですよ。そしたら師匠が、そのスポンジを受け取って、1分くらい読むんですよ。「ジャイアンツ、昨日は勝ったのか……。バカ野郎、この野郎。なんでスポンジなんだ。スポニチに決まってるだろ!」と(笑)。毎日がそれ。

ビートたけしの「頭を使え」を実践 横山やすしがまさかの激怒

東国原 あの頃はスタジオでタバコが吸えたんですよ、休憩時間に。今では信じられない世界です。休憩時間にスタジオの隅にパイプ椅子を並べて、演者が歓談するんですね。師匠がこう(右手の人差し指と中指を立てる動作)すると、僕は走ってタバコを挟んで、ライターに火をつける。これを数秒以内にやる。でも毎回それをやっていたら、師匠があるとき言うんですね。「お前ちょっと考えろ。頭使え」と。

「俺がこうやって、普通にタバコを挟んだら面白くねえだろ。いいか?ディレクターとかプロデューサーが見てんだよ。こうやったら走ってきて、俺の指をお前の鼻の中に入れろ。そうしたらプロデューサーとか演者とか周りのスタッフが見てて、『このお弟子さん面白いね』と、『仕事任せてみようか』みたいなことになるじゃないか」

そういうことかと。あの頃は“普段から面白いやつが面白い”と言われていた。

その翌日でした。漫才界で一番厳しく、一番の荒くれ者と言われている横山やすし師匠と(ビートたけし)師匠は、仲が良かったんですね。スタジオの隅で、話をされていた。横山やすしさんがこう(右手の人差し指と中指を立てる動作)されたんですよ。これはチャンスだ!と。やすきよさんはトップですからね。その方たちに認められたらいいぞと思って、横山やすしさんの指を、(私の)鼻に突っ込んだんですよ。

時間が1分くらい止まりましたね。世界の時間が止まりましたわ。周りは何が起きているのか分からない。横山やすしさんも分からない。「自分の指がたけしの弟子の鼻の穴に突っ込まれている」んですよ。そしたら、やすし師匠が「こら、ワレ!」って言いながら、さらに鼻の奥に突っ込まれた。目から指が出るかと思いましたよ(笑)。で、バカ野郎!パンパンパンパンですわ。当時はそうだったんですよ。

で、涙目になりながら、たけしさん見たんですよ。腹抱えて笑ってるんですよ。助けてくれないんですよ。そういうことが毎日でしたね。それがオールナイトニッポンでネタになるんですよ。

――日常がお笑いですね。

東国原 そう。仕掛けるんですね、僕に。いたずらを仕掛けるんです。そのリアクションを見てネタを作っていく。もちろん他にもいっぱいネタはあったんですけども、そういう毎日。

そのうちに、大森うたえもん、松尾伴内、柳ユーレイ(柳憂怜)、ダンカン、カージナルスが入ってきて、軍団が出来上がる。3、4年後の話です。

――ビートたけしさんも売れていって、軍団もさらに大きくなりました。

東国原 はい。レギュラーが8本から10本くらい。3、4年の間に。

――それだけ充実したお笑い生活があった中でまた今度、政治家を目指すというタイミングがあった。2000年の大学進学のきっかけというのは、

東国原 1998年の風俗事件ですね。“淫行騒動”と言われたあの事件で自主謹慎をさせてもらいました。

(後編へ続く)

インタビュー・文/加藤聡 内外タイムス編集部

《プロフィール》
東国原英夫(ひがしこくばる・ひでお)1957年宮崎県都城市生まれ。1980年に専修大学を卒業後、ビートたけしに弟子入りし、「そのまんま東」として芸能界で活躍。2000年に早稲田大学第二文学部へ進学し、2007年に宮崎県知事に就任。2012年には衆院議員に初当選。現在は政治評論家、タレント、作家などマルチに活動している。

関連記事一覧