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「秋葉原殺傷事件」加藤元死刑囚の友人・大友秀逸さんインタビュー(前編)「なぜ電話一本くれなかったのか」加藤智大との出会いと過酷な現場で見せた「素顔」

2008年6月8日、秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込み、多くの人々を巻き込んだ凄惨な無差別殺傷事件が起きた。犯人は当時25歳の加藤智大(元死刑囚)。加藤の友人としてメディアで発言を続ける大友秀逸さんが、加藤との出会いと別れ、過酷な現場労働の合間に見せた素顔、そして彼が抱えていた「生きづらさ」の深淵(しんえん)について内外タイムスに語った。

同郷の「友人」として始まった仙台での日々

大友さんが加藤元死刑囚と出会ったのは、2003年、仙台市内の警備会社だった。20歳で入社してきた加藤を、6歳年上の大友さんは、お互い出身が青森で同郷ということもあり、親近感を感じた。

「現場へは私の車で送り迎えをしていて、車内でよく話をしました。車が好きだったり、アニメやゲームなどの共通の話題があったので、そうした話で盛り上がりましたね。仕事終わりに一緒にラーメンを食べに行くこともありました」

第一印象は真面目で活発。加藤は最年少だったこともあり、いじられキャラや自虐ネタで場を和ませるムードメーカーでもあった。頭の回転も速く、仕事を頼もうとすると「もうやっておきました」と先回りできるほどの聡明(そうめい)さを持っていた。

ふと垣間見えた家族の闇と、ブラックすぎる労働環境

しかし、接していく中でふと加藤の抱える闇に触れる瞬間もあったという。

「『両親は元気か』とか『実家に帰ったりするのか』と聞いても、結局『元気です』の一言で終わってしまうんです。話を広げる気がなく『聞いてほしくない』というオーラを出していました。僕自身も幼少期に殴られて育った虐待児だったので、あえてその傷に触れないという選択を取りました」

加藤は親からの過度な期待を受けて育っていた。母親の悲願であった地元の進学校・青森高校に入学したものの大学受験に失敗し、岐阜県の自動車短大に進学した経緯がある。

「親からは『最低でも北大(北海道大学)』と言われていたらしく、本人はそのあてつけで岐阜の短大に行ったと言っていました。結局、自動車の資格も取らずに卒業したというので理由を尋ねると、言葉を濁されました。何かがあったんだろうな、とは感じ取れました」

岐阜から仙台へ引っ越した加藤は、友人の家に居候しながらコンビニでバイトを始めたが立ち行かなくなり、初めてフルタイムで働き始めたのが前述の警備会社だった。しかし、その労働環境は劣悪だった。

「当時の最低賃金(時給700円未満)ギリギリの募集で、一日働いても日当は5600円程度。雨で仕事が休みになると給料が入らず、交通費も一律200円しか出ませんでした」

名ばかり管理職、そして「最後の別れ」

やがて2人は内勤に抜擢(ばってき)される。しかし、固定給になる代わりに「名ばかりの責任者」にさせられ、いくら残業しても手当は月に5000円しか支給されなかった。

「加藤は8時から20時までの勤務が固定で、明らかに過酷な残業が発生していました。さらに『パチンコで当たったから』と急に夜勤をキャンセルする同僚の穴埋めに加藤が入り、勤務終了の1時間後には翌朝のシフトに入るような状態でも、手当は上限の5000円しか出ないのです」

見かねた加藤は労働時間の削減案を営業所長に提案するが、所長は提案書を読みさえせず放置された。裁判で加藤が「唯一許せない人間がいた」と証言したのは、まさにこの営業所長のことだった。「ガソリンをまいて火をつけようと思った」とまで口にしていた加藤は、2年間働いた警備会社を突如辞めることになる。

「現場でトラブルがあり、無断欠勤を続けるようになったんです。解雇されると次の仕事に差し支えるので、僕が電話を入れて『一身上の都合でいいから辞表を出して辞めろ』と伝えると、翌日に辞表を出してきました。その後、ファミレスでご飯を食べて『頑張ってこいな』と励まし、家まで送ったのが彼と物理的に会った最後になりました。それが2005年、事件の3年前のことです」

うその近況報告と、途絶えた連絡

「埼玉のトラック製造工場で働く」と語っていた加藤と、大友さんはその後もメールや電話でやり取りを続けた。

「『週末に秋葉原へ行くのが楽しみだ』とか『職場では電車男と呼ばれています』といった話をしていました。彼なりの自虐だったのかもしれませんが、バカにされているのではないかと心配になりました」

だが、加藤が埼玉にいるというのはうそだった。面接で「気を失った経験はあるか」と問われ、素直に答えた結果不採用になっていたのだ。

「僕にはずっと『埼玉で働いている』と言っていたので、どういう心境だったのかなと思います。僕は、成田で新しい警備会社を立ち上げ、誘っていたのですが、だんだん疎遠になってしまいました。その警備会社にのちの裁判で、一番許せないと言っていた仙台の警備会社の営業所長が入っていたからかもしれません。自著で『行動で示す』と言っていたので、行動で示されたのかもしれない。そうこうしているうち、事件の一年ほど前に僕がガラケーを洗濯してしまい、データが消えてしまいました。連絡先が分からなくなり、事件当日まで彼から折り返しが来ることはありませんでした」

「なぜ電話一本くれなかったのか」—2008年6月8日の衝撃

そして、運命の2008年6月8日を迎える。当時、秋葉原から徒歩10分ほどの警備会社で働いていた大友さんは、休日の昼過ぎに目を覚まし、テレビのニュースで秋葉原の映像を目にした。

「一目で加藤だと分かりました。最初は事故かと思ったのですが、ウェブニュースで『トラックが突っ込んだ』『ナイフで負傷者多数』とリアルタイムで更新され、容疑者逮捕のニュースで写真が出た瞬間『ああ、加藤だったか』と確信しました」

共通の知人に知らせても最初は信じてもらえず、数分後に事実を知った知人からかかってきた電話では、お互いに言葉を失った。

「真っ先に浮かんだのは『なんで電話一本くれなかったのか』という思いでした。地球の裏側にいたなら駆けつけられなかったかもしれない。でも、僕は秋葉原のすぐ目と鼻の先にいたんです。電話一本くれればすぐに飛んでいける距離にいたのに……なぜ連絡してくれなかったのかという悔しさが離れませんでした」

『内外タイムス』も6月9日発行の一面(https://naigaitimes.com/legacy-issues/2008年6月10日/)で「アキバ系激怒」との見出しを掲げ、秋葉原の街や人々の憤りを報じた。取材に対して人々が口々にしたのは「なぜ秋葉原だったのか」という疑問だったが、その理由は「人が多く、自分がよく知っている街だから」という拍子抜けするほどたわいもないものだった。

翌日、異様な熱気に包まれる現場へ向かった大友さんは、加藤が移送されているうわさを聞きつけ万世橋警察署へと向かった。

「警察署の前で『友人だが入れないか』と尋ねましたが、当然断られました。もし護送車で出てきたら、車に飛び蹴りでも食らわせて『なんで電話ひとつ寄こさなかったんだ!』と怒鳴りつけてやりたい一心で立ち尽くしていましたが、結局彼が出てくることはありませんでした」

《プロフィール》
大友秀逸(おおとも・しゅういつ)1976年青森県生まれ。2008年の秋葉原無差別殺傷事件を起こした加藤智大元死刑囚の元同僚で友人。事件後、「犯人の友人」として実名・顔出しで発信を続け、現在は保護司としても活動。XのDMには生きづらさを抱える人々から数々の相談が寄せられる。

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