講演では数々の公文書が示された =14日、石垣市・市民会館中ホール

「漁民と行政が守ってきた」 尖閣は日清戦前から管理下

 石垣市が14日に開催した「尖閣諸島開拓の日」式典で、法政大学沖縄文化研究所の國吉まこも研究員が講演し、日本政府が日清戦争(1894~95年)以前の1880年代から尖閣諸島の管理を開始していたとする歴史的知見を示した。國吉氏は、八重山地域の漁民が領土編入前から同海域で経済活動を行っていた史実などを挙げ、日清戦争の勝利に乗じて奪ったとする中国側の主張に対し、領土編入の約10年前から続く「実効支配のプロセス」を公文書で裏付けた。

國吉まこも研究員


 國吉氏は、2005年から「尖閣諸島文献資料編纂会」の調査員として近代沖縄における尖閣の歴史を研究。今回の講演では、八重山博物館所蔵の「喜舎場永珣(きしゃばえいじゅん)資料」や当時の公文書など、焼失を免れた貴重な一次資料に基づき論陣を張った。
 國吉氏が示した資料によると、調査の端緒は1885(明治18)年の「巨文島(きょぶんとう)事件」にあった。ロシアの極東進出を阻むため英国艦隊が巨文島を占領した事態を受け、当時の井上馨外務大臣は第4代沖縄県令(知事)の西村捨三(にしむら・すてぞう)氏に対し、県内離島の巡回調査を命令。同年8月末の大東島調査に続き、10月末には尖閣諸島・魚釣島の現地調査が実施された。当時、県当局は既に「境界明確化の重要性」を強く認識していたという。
 また外交面でも、同年6月の段階で井上氏が北京の榎本武揚公使に宛てた訓令の中で、「欧州諸国が殖民政策を極東へ進める中、一孤島といえどもおろそかにしていい時期ではない」と明記。宮古・八重山諸島を清国との間で分割・管理する「分島(ぶんとう)交渉」については、「行う時期にはない」として拒否する方針を明確に示していた。
 翌86(明治19)年から次年にかけて、山縣有朋内務大臣ら政府要人が相次いで沖縄を巡視し、その復命書(報告書)の中に尖閣諸島と目される無人島の記述が残されていることも紹介。八重山博物館所蔵の「喜舎場永珣資料」から発見された侍従による復命書の草稿を提示し、「山縣氏らが指す無人島は、位置関係から尖閣諸島を指している可能性が極めて高い」と指摘。そのことから、政府が戦前から先島諸島の主権維持を確固たるものにしていたと主張した。
 國吉氏は、1895年1月14日の閣議決定による領土編入よりはるか以前から、八重山地域の漁民が経済活動として夜光貝や平良貝を求めてサバニで尖閣周辺へ出漁していた記録も示した。1891(明治24)年には、尖閣諸島を指すと推測される「阿根久場島(あこんくばしま)」を八重山島役所・警察署の仮所轄と定める訓令案や地図も作成されており、長年にわたる編入への取り組みが結実したのが1895年の閣議決定であったと総括した。
 中国側が領有権を主張し始めたのが1968年の石油埋蔵可能性の指摘以降である点に触れ、國吉氏は、歴史的根拠に基づく日本の主権の揺るぎなさを改めて強調し、県政・県治の歴史から尖閣をとらえなおす研究の重要性を訴えた。

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