父のルーツは朝鮮半島 27歳で急逝した悲運の横綱・玉の海の出生の謎
26日に千秋楽を迎えた大相撲名古屋場所の会場で、往年の相撲ファンを喜ばせる展示会が開かれた。「悲劇の横綱」と呼ばれた玉の海の遺品や写真を集めたもので、地元の市民団体が主催した。現役時代の写真のほか、横綱推挙状などゆかりの品が並んだ。
稽古熱心で知られ、1970年、北の富士とともに横綱に昇進すると、大相撲は「北玉時代」と呼ばれる黄金時代を迎えた。ところが、27歳で急死するという悲運に見舞われた。いまも彼の土俵を惜しむファンは多い。
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20年前に韓国で出版された兄の告白本
日本相撲協会の公式ホームページにおける玉の海の記述は「愛知県蒲郡市出身」とあり、日本人力士として扱われている。父方のルーツは朝鮮半島にあったという。
そのことを彼の実兄が韓国の新聞記者に語り「ヤクザと横綱」(趙憲柱著、未邦訳)というタイトルで、20年前に韓国で出版されている。
玉の海(本名・谷口正夫)は1944年、大阪市生野区に生まれた。米軍の空襲で家を失い、愛知県蒲郡市へ疎開した。母は4人の子どもを育てるため、針仕事や行商だけでなく土木作業までこなし、一家を支えたという。
少年時代は柔道に打ち込み、警察官を目指していた。しかし、才能を見込まれて角界入り。1959年に初土俵を踏んだ。
相手を持ち上げる玉の海の豪快な吊り出しは「双葉山の再来」と称され、「不知火型」の土俵入りもファンを沸かせた。
華やかな取り口で人気者だった北の富士に対し、玉の海は実直で寡黙、体も小さかった。まるで正反対の2人は最高のライバルとなった。2人の幕内での対戦成績もほぼ互角だった。
突然の別れと残された謎
玉の海は初土俵から亡くなるまで、一度も休場しなかった。しかし、その生真面目さが、悲劇につながった。
1971年、虫垂炎による痛みを感じながら土俵に立ち続け、秋場所後にようやく手術を受けた。経過は順調だったが、洗面後に病室で倒れ、3時間後に亡くなった。死因は血栓が肺の動脈を塞ぐ「肺血栓塞栓症」だった。
彼の没後、日本の週刊新潮が「最初の外国人横綱は玉の海」との見出しで報道し、韓国の新聞が後追い報道を行ったことがある。その元になった書籍が、「ヤクザと横綱」だった。
同書にある兄の証言によれば、父親は1909年生まれで、19歳の時、韓国南部の慶尚道から大阪へ渡ったというが、詳しい経緯は子どもにも語っていない。母親は日本人だが、夫の暴力や複雑な女性関係に耐えられず離別。玉の海は母の戸籍に入り、日本人として生活した。
兄弟であることを口外しなかった兄
兄の谷口秀一は、荒れた家庭の影響もあって高校を中退してヤクザの道に入り、一時、刑務所で服役していたこともある。自分の生い立ちと家族の歴史を文章にまとめ、中学の同級生で、北朝鮮の人権問題にも取り組んでいた小川晴久・東大名誉教授(東洋思想、85歳)に渡したことから「ヤクザと横綱」の出版につながった。
今でこそ、外国出身の相撲取りは珍しくないが、玉の海の父親について日本のメディアはほとんど言及しなかった。「日本の国技である相撲の最高位・横綱の座が韓国の血を引く人物に奪われたという事実を認めたくなかったから、知らないふりをしていた」と同書は主張している。
小川は筆者の問い合わせに対して、「兄の秀一さんは弟をずいぶん自慢していたが、迷惑をかけると思ったのか兄弟であることは長く口外しなかった」と語った。弟の急逝には大きなショックを受け、その後ヤクザの世界から足を洗った。韓国語を学び、小川とともに父の故郷も訪ねている。69歳で亡くなった。
晩年まで「自分は百害無益な兄」「もっと生きるべきだった人間が死に、とっくに死ぬべきだった奴が生きている」と、自嘲気味に語っていたという。
文/五味洋治 内外タイムス






