映画「オデュッセイア」は現代において、戦争後、人間はいかに日常に帰還するのかを突き付ける
「インセプション」「ダンケルク」、そして「オッペンハイマー」と数多くの話題作を生み出した、アカデミー賞受賞監督クリストファー・ノーランの新作「オデュッセイア」が、ついに日本に上陸する。
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ホメーロスが2800年前に記した叙事詩を全編IMAXフィルムカメラで撮影した本作は、トロイア戦争を終えたオデュッセウス(マット・デイモン)が、10年に及ぶ漂流の末、故郷イタケへの帰還を目指す物語だ。だが、ここで描かれるのは、英雄の武勲でも華々しい凱旋(がいせん)でもない。むしろ本作は、「戦争を抱えて帰る人間」の物語である。
オデュッセウスは戦争を終えても故郷へ帰ることができず、生者とも死者とも判別できない「不在者」となる。さらに、ようやくイタケへ戻った後も、物乞いに身をやつし、正体を隠さなければならない。つまり「帰還」とは、身体が故郷へ戻ることだけではない。戦争によって変わってしまった人間が、もう一度共同体のなかで「人」として認められるまでの過程なのである。
この「帰れない人間」という主題は、近年のノーランが自身の作品で描き続けてきたものでもある。前作である「オッペンハイマー」では、原子爆弾の開発によって戦争終結に加担した科学者が、その暴力の余燼(よじん)から逃れることができない。科学者としても、一市民としても、彼は戦後の世界へ完全に帰還することができない。
ギリシャ神話を「帝国の言語」英語で届ける
「オデュッセイア」で、「帰れない人間」を描き続けたノーランが、ついに「帰還」そのものを主題とする古代の物語にたどり着いたと言える。本作におけるトロイア戦争の終結は「勝利」としてではなく、大虐殺として描かれる。英雄譚(えいゆうたん)の出発点に置かれるのは栄光ではなく、暴力の記憶である。オデュッセウスを20年にわたる「不在者」へと変えてしまうのも、その戦争と殺戮(さつりく)に対する罪にほかならない。
ここで、この古代の物語を現代へ引き寄せるのが、ノーランという映画作家の視点である。イスラエル・イラン情勢をはじめ、いまなお戦争が続く現代において、単純な「戦争が終われば帰れる」という物語は成立しにくい。戦場から戻った人間は、戦争以前の自分にも、以前の共同体にも、そのまま戻ることができないからだ。
興味深いのは、この古代ギリシアの神話が「帝国の言語」ともいえる英語によって語られていることだ。ホメーロスの叙事詩を、アメリカ現代映画が、巨大なIMAXスクリーンを通して世界へ届ける。その構図そのものが、戦争を繰り返してきた21世紀の世界を、古典の翻案を通して、映しだしているようにも見える。「オデュッセイア」は古代の神話であると同時に、現代アメリカの寓話(ぐうわ)でもあるのだ。
もちろん、本作の暴力描写には、その壮大なスペクタクル性ゆえの危うさもある。巨人兵との戦闘などでは、殺戮が身体的な苦痛や死への恐怖というより、巨大な運動と映像的快楽として構成される瞬間がある。暴力を映すことと、暴力をスペクタクルとして見せることは同じではない。本作が戦争の罪責を描こうとする一方で、その暴力そのものを美学的対象へ変換してしまうという矛盾も、見逃すべきではない。
それでも、「オデュッセイア」が最後に描く「帰還」は、勝利への帰還ではない。暴力を知ってしまった者が、その暴力を抱えたまま共同体へ帰っていくからだ。英雄は戦争から帰ってくる。しかし、戦争は英雄のなかに残り続ける。ノーランがこの古典から見出したのは、戦争の後に人間はいかにして「帰る」のかという、21世紀にもなお終わっていない問いなのである。
文/小城大知 内外タイムス






