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大立大殿みゃーか、市文化財に

 






2012/08/24 09時03分配信 - 文化・芸能 -

 宮古島市文化財保護審議会 (岡徹会長) は、 先日開いた審議会で平良字下里にある 「大立大殿みゃーか」 について現況を確認し、 「急いで市文化財に指定し、 保存・活用していくことが望まれる」 とした。 このみゃーかは、 各地に点在するみゃーかと関連して宮古の歴史を考察する上で貴重な遺跡として旧平良市時代の1988年に市教育委員会に答申されており、 今回は答申から20余年が経過していることもあり、 再度現況確認を行った。 市教育委員会では27日の定例会で審議し、 文化財指定に持っていく方針だ。
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 大立大殿みゃーかは、 88年に答申が行われたものの、 その後審議がされなかったという。 市文化財保護審議会は今回、 市公設市場前交差点と平良港東側の国道390号を結ぶ下里西通り線の工事により、 周囲が掘り下げられ交差点の歩道上に約2㍍の高台を残した形となるなど変化した現況を確認し、 「市文化財指定」 による保存・活用を強調した。 これを受け、 事務局では既に答申が行われていることから、 市教育委員会には現況 (資料) を添付する。
 大立大殿みゃーかは、 15世紀後半に宮古島の主長を務めた大立大殿の墓と伝えられている。 大立大殿は童名を真佐利といい、 1390年に初めて中山に朝貢した与那覇勢頭豊見親の孫にあたる。 父・泰川大殿が病のため隠棲、 兄2人も早死したので大立大殿が与那覇勢頭豊見親の後を継いで白川氏の2代目となる。 「宮古島記事仕次」 によれば、 仲宗根豊見親の幼小の頃の空大を養育したと言われる。
 みゃーかのある一帯は、 俗称・布干堂 (ヌヌドー) と呼ばれ、 昭和初期は海の入江だったという。 戦後、 民家や倉庫が建ち並び、 みゃーかが建物に隠された。 それにより存在自体が忘れ去られていたが、 後に同審議会の調査により存在が明らかになり、 みゃーかを囲っていたブロック塀が撤去されて外部から見られるようになった。 みゃーかの形状は、 巨石で長方形の石室を造り、 上部に1枚のふた石を被せてある。 石室の周囲は巨石を用いて外郭をめぐらしてあったようだが、 外郭の部分は撤去され元のみゃーかの全体の形態は不明で、 ふた石の1枚岩も2つに割れている。

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市文化財保護審議会が現況を確認した「大立大殿みゃーか」は、 27日に指定へ向けて審議が行われる=平良字下里

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